言葉の語源
日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。
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平成26年5月4日(日)の聖教新聞にこんな記事が載っていましたので紹介します。
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【みんなで学ぶ教学】~新会員のための仏法入門~
世界広布時代を迎えた今、新入会のメンバーや新たに学会活動に主体的に取り組むメンバーが陸続*と誕生しています。ここでは、「みんなで学ぶ教学~新会員のための仏法入門~」と題し、教学の基本的な事柄を解きほぐしながら研鑚(けんさん)できる内容を掲載します。最初に「十界論」を上下2回に分けて学びます。(「十界論㊦」は17日付に掲載予定)
*次々と連なり続くさま。
刻一刻と変わる私たちの生命
日蓮仏法の目的は各人が幸せになる事です。では、幸せはどうすれば実現できるでしょうか。これはさまざまに論じることができますが、仏法の立場からいえば「各人に具わる仏の生命を開き現すこと」で実現可能だと表現できるでしょう。
私たちの生命状態は刻一刻と変化します。私たちは日々の生活の中で、さまざまな生命状態の違いを実感しています。
例えば毎日通る道があるとします。うれしいことがあって、弾むような気持ちだるく日もあれば、落ち込んで下を向いて歩く日もあるでしょう。また、同じ景色を見ても、ある日突然、道端に咲く花の美しさに心奪われるときもあります。これらは、私たちの生命状態が常に変化してやまないことを示しています。
仏法では、すべての人に共通する教外として、地獄界、ガキ界、畜生界、修羅界、人界、天界、証文界、円が区会、菩薩戒、仏界という「十界」すなわち十種類の生命状態を説きます。この内最高の教外が仏界で有り、それが番人の生命に備わっていると仏法では教えます。そして、仏界の生命を開くことで充実した人生を価値飾ることができるというのが「十界論」の結論です。
日蓮大聖人は、十界のうち最初の六界それぞれについて次のように述べられています。
「或る時は喜び或る時は瞋(いか)り或る時は平(たいらか)にある時は貪り現じある時は癡(おろか)現じ或る時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御所241ページ)
この御文に沿いながら、各界を順にみていきましょう。
十回論㊤ 万人に共通する十種の境涯
①地獄界 苦しみに縛られた最低の状態
「地」は最低を意味し、「獄」は縛られた不自由さを表します。「瞋るは地獄」とあるように、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。
つまり地獄界とは「生きていること自体が苦しい」「何をみても不幸に感じる」境涯といえるでしょう。
②餓鬼界 常に満たされない欲望の奴隷
「餓鬼」野本元の意味は「死者」のことです。死者が常に飢え、食物を欲しているとされていたことから、激しい欲望の炎に身も心も焼かれている状態を「餓鬼界」と表現しました。欲望が満たされずに苦しむ境涯です。「貪るは餓鬼」と仰せのように、際限のない欲望に振り回され、欲望の奴隷になって苦しむのが特徴です。
③畜生界 目先の利害に従い道理に暗い
「畜生」とは、ここでは獣や鳥などの本能のままに動く動物の愚かな面を指します。
「癡は畜生」とある通り、その特徴は、因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動する「愚かさ」にあります。
「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(御所957ページ)といわれるように、弱肉強食の生存競争に終始する境涯でもあります。
以上、地獄界・餓鬼界・畜生界の三つはいずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。
④修羅界 他社と比べ勝ろうとする慢心
「修羅(阿修羅)」とは、もともとは争いを好む古代インドの神の名です。他社と比べ、常に自分が勝ろうとする心(勝他の念)を強くもっているのがその特徴です。
自分のほうが優れていると思えば、慢心を起こして他社を軽んじる。自分よりも強いものに出会えば、卑屈になって諂(へつら)う。ゆえに日蓮大商人は「諂曲(=媚び諂い)なるは修羅」と仰せです。
自分を優れたものに見せようとするために、表面上は人格者を装うことがありますが、内面は自分より優れたものに対するねたみと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるものも修羅界の特徴です。
修羅界は、自分の意志で行動を決めている分だけ、三悪道を超えています。しかし、結局は苦しみを伴う境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣(よんあくしゅ)」ともいいます。
⑤人界 平静で穏やかな人間らしさ
四悪趣を超えた穏やかな生命状態が「人界」です。「平らかなるは人なり」とあるように、平静で人間らしさを保っている境涯です。その特質は、善悪を判断する理性が働いていることです。しかし、この境涯も努力なしに持続できるものではありません。悪縁が多い世間にあって、人間らしく生きるためには、常に向上しようとする努力が必要です。人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。
⑥天界 欲求が満たされたときの喜び
「喜ぶは天」と仰せの通り、欲望や欲求が満たされたときの喜びの境涯です。睡眠欲や食欲などの本能的欲望や、新しい家や車がほしいというような物質的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したりというような精神的欲望など、欲望にはさまざまなものがありますが、それらが満たされた時に人は喜びに浸ります。
しかし、展開の喜びは長続きするものではなく、時がたてば薄らぎ、消えてしまいます。ゆえにこの天界も目指すべき真実の幸福境涯とはいえません。
以上地獄界から天界まで六つの境涯をまとめて「六道」といいます。
六道の繰り返しを超えて
私たち日常生活の大半は、六道の境涯を繰り返しています。この六道の境涯は、自信の外の条件、環境に左右されているという意味で、本当に自由で主体的な境涯とはいえません。
これに対して、六道の境涯を超えて、環境に支給されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。仏道修行によって得られる残りの四つの境涯については、次回に学びましょう。
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「いい朝だな~♪」と人界で目覚め、満員電車に無理矢理乗る畜生界を通り、会社で同期が一足先に昇進すれば心でくそーと思っても本人の前では「いやぁおめでとう^^」とにこやかにお祝いをいうのは阿修羅界。
12時になったのでランチを食べると目尻も下がり天界へ。おなかの皮が突っ張りまぶたがゆるんで書類のタイプミス。上司に怒られ地獄界。やり直していたら定時に終わらず残業「おなかがすいたー」と餓鬼界を迎えて、夜は更けていく…。
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【みんなで学ぶ教学】~新会員のための仏法入門~
世界広布時代を迎えた今、新入会のメンバーや新たに学会活動に主体的に取り組むメンバーが陸続*と誕生しています。ここでは、「みんなで学ぶ教学~新会員のための仏法入門~」と題し、教学の基本的な事柄を解きほぐしながら研鑚(けんさん)できる内容を掲載します。最初に「十界論」を上下2回に分けて学びます。(「十界論㊦」は17日付に掲載予定)
*次々と連なり続くさま。
刻一刻と変わる私たちの生命
日蓮仏法の目的は各人が幸せになる事です。では、幸せはどうすれば実現できるでしょうか。これはさまざまに論じることができますが、仏法の立場からいえば「各人に具わる仏の生命を開き現すこと」で実現可能だと表現できるでしょう。
私たちの生命状態は刻一刻と変化します。私たちは日々の生活の中で、さまざまな生命状態の違いを実感しています。
例えば毎日通る道があるとします。うれしいことがあって、弾むような気持ちだるく日もあれば、落ち込んで下を向いて歩く日もあるでしょう。また、同じ景色を見ても、ある日突然、道端に咲く花の美しさに心奪われるときもあります。これらは、私たちの生命状態が常に変化してやまないことを示しています。
仏法では、すべての人に共通する教外として、地獄界、ガキ界、畜生界、修羅界、人界、天界、証文界、円が区会、菩薩戒、仏界という「十界」すなわち十種類の生命状態を説きます。この内最高の教外が仏界で有り、それが番人の生命に備わっていると仏法では教えます。そして、仏界の生命を開くことで充実した人生を価値飾ることができるというのが「十界論」の結論です。
日蓮大聖人は、十界のうち最初の六界それぞれについて次のように述べられています。
「或る時は喜び或る時は瞋(いか)り或る時は平(たいらか)にある時は貪り現じある時は癡(おろか)現じ或る時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御所241ページ)
この御文に沿いながら、各界を順にみていきましょう。
十回論㊤ 万人に共通する十種の境涯
①地獄界 苦しみに縛られた最低の状態
「地」は最低を意味し、「獄」は縛られた不自由さを表します。「瞋るは地獄」とあるように、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。
つまり地獄界とは「生きていること自体が苦しい」「何をみても不幸に感じる」境涯といえるでしょう。
②餓鬼界 常に満たされない欲望の奴隷
「餓鬼」野本元の意味は「死者」のことです。死者が常に飢え、食物を欲しているとされていたことから、激しい欲望の炎に身も心も焼かれている状態を「餓鬼界」と表現しました。欲望が満たされずに苦しむ境涯です。「貪るは餓鬼」と仰せのように、際限のない欲望に振り回され、欲望の奴隷になって苦しむのが特徴です。
③畜生界 目先の利害に従い道理に暗い
「畜生」とは、ここでは獣や鳥などの本能のままに動く動物の愚かな面を指します。
「癡は畜生」とある通り、その特徴は、因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動する「愚かさ」にあります。
「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(御所957ページ)といわれるように、弱肉強食の生存競争に終始する境涯でもあります。
以上、地獄界・餓鬼界・畜生界の三つはいずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。
④修羅界 他社と比べ勝ろうとする慢心
「修羅(阿修羅)」とは、もともとは争いを好む古代インドの神の名です。他社と比べ、常に自分が勝ろうとする心(勝他の念)を強くもっているのがその特徴です。
自分のほうが優れていると思えば、慢心を起こして他社を軽んじる。自分よりも強いものに出会えば、卑屈になって諂(へつら)う。ゆえに日蓮大商人は「諂曲(=媚び諂い)なるは修羅」と仰せです。
自分を優れたものに見せようとするために、表面上は人格者を装うことがありますが、内面は自分より優れたものに対するねたみと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるものも修羅界の特徴です。
修羅界は、自分の意志で行動を決めている分だけ、三悪道を超えています。しかし、結局は苦しみを伴う境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣(よんあくしゅ)」ともいいます。
⑤人界 平静で穏やかな人間らしさ
四悪趣を超えた穏やかな生命状態が「人界」です。「平らかなるは人なり」とあるように、平静で人間らしさを保っている境涯です。その特質は、善悪を判断する理性が働いていることです。しかし、この境涯も努力なしに持続できるものではありません。悪縁が多い世間にあって、人間らしく生きるためには、常に向上しようとする努力が必要です。人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。
⑥天界 欲求が満たされたときの喜び
「喜ぶは天」と仰せの通り、欲望や欲求が満たされたときの喜びの境涯です。睡眠欲や食欲などの本能的欲望や、新しい家や車がほしいというような物質的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したりというような精神的欲望など、欲望にはさまざまなものがありますが、それらが満たされた時に人は喜びに浸ります。
しかし、展開の喜びは長続きするものではなく、時がたてば薄らぎ、消えてしまいます。ゆえにこの天界も目指すべき真実の幸福境涯とはいえません。
以上地獄界から天界まで六つの境涯をまとめて「六道」といいます。
六道の繰り返しを超えて
私たち日常生活の大半は、六道の境涯を繰り返しています。この六道の境涯は、自信の外の条件、環境に左右されているという意味で、本当に自由で主体的な境涯とはいえません。
これに対して、六道の境涯を超えて、環境に支給されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。仏道修行によって得られる残りの四つの境涯については、次回に学びましょう。
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「いい朝だな~♪」と人界で目覚め、満員電車に無理矢理乗る畜生界を通り、会社で同期が一足先に昇進すれば心でくそーと思っても本人の前では「いやぁおめでとう^^」とにこやかにお祝いをいうのは阿修羅界。
12時になったのでランチを食べると目尻も下がり天界へ。おなかの皮が突っ張りまぶたがゆるんで書類のタイプミス。上司に怒られ地獄界。やり直していたら定時に終わらず残業「おなかがすいたー」と餓鬼界を迎えて、夜は更けていく…。
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