言葉の語源
日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。
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⇒第一章「無限と連続-その感性と論理-」見出しは12に分かれている。1から3までは「無限」という言葉の意味を明確にするために、有限である「数」という概念を獲得し、それを数字として表するまでに発展したことを記述している。見出し4から8までは無限と連続の概念を確立するに至る過程を追跡する。
存在を存在として研究する形而上学を用いたアリストテレスは、哲学の開祖とするタレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスなどイオニア系の諸家を第一原理としていた。
ソクラテスは「大部分の人々は、自分が知恵を持っていないのに、なんでも知っているように錯覚している。ところが自分何も知らない、ということを知っているという点においては、知恵者である」無知の知といった。その後ゼノンの登場により、相手の主張をいったん受け入れて、底から矛盾を弾く出すことによって、それが不合理であることを示す「弁証法」をとった。
見出し9ではゼノンからアリストレテスに受け継がれた「二分割」「アキレウス」「飛ぶ矢」のパラドックスを理論的解決に導く。ゼノンの加算無限に関するパラドックスである「移動する者は目的点に到達するより前に、その半分の距離の点に到達しなければならない。半分の距離の点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、残りの距離の半分の点に到達しなければならない。その点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、さらに残りの距離の半分の点というように、次々と残りの距離の半分の点に到達しなければならない。
このことは限りなく続くから、走者は目的点に到達することはできない」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
この言葉の中で議論によって明らかにされた以下の3つの点を踏まえて考える。
① 観念は有限・無限にある、しかし有限は知覚できるが無限は存在を確かめられないので知覚できない。
② 概念は同じでなければならない。もし一方を知的世界のものとするならば、他方もやはり知的世界のものとする。
③ ゼノンの哲学では一つの真疑を証明するために、証明したいものを否定した論理を提出してから、それでは道理に反する結果が現れる間接証明法を使っている。
この3つの前提によって「二分割」をみると、最初の半分の点に到達するのは③の論法として理解できるが、限りがない、無限であるということをどのように示しているのだろうか。
①にあるように「無限」は存在を確かめられない、すなわち確かめられないものを証明できるはずもなく、走者は目的点に到達することができないのであれば、問題の設定に終わりがないということから、論理的解決にいたる。
ゼノンのパラドックスの解決を通じて今日の科学技術の基調をなすわれわれ哲学的認識体系が矛盾のない整合性を持つことを検証した。ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。先日スクーリングで環境経済学を学んだ。地球温暖化、海洋被害、大気汚染によるオゾン層破壊、毎日どこかで破壊されている自然。過去、人間が豊かさを求めておこなっていた活動が、現在では深刻な環境問題にまで発展している。ただやみくもに水を使うときは蛇口を開けたままにしない、電気はこまめに消そう、ごみのでないような買い物をしようなどの声を聞くが、今までしてきた生活を急に変えることはできない。
だが現状のままでは確実に地球人は破滅に向かっている。地球を壊さずに人間社会のみならず地球上のあらゆる生物が豊かになるためにはみんなの意識を変えねばならないのではないだろうか。そのために哲学から環境を考えてみたい。
テーブルの上に、水の入ったコップがある。その中に氷を入れる。水は並々と入っているが、表面張力で水はコップからこぼれない。そのまま時間がたつとどうなるだろうか。だんだん氷が溶けていくにしたがって水になる。すると、コップの中にある水の量が増える。コップの水はあふれるだろうか。表面張力を保っただけのコップの中の水が増えれば当然あふれるだろう。しかし水はあふれ出さない。
なぜなら氷が溶けて水は増えたが、逆に氷自身は溶けて小さくなり体積が減る。その溶けて水になった量と氷が溶けて体積が減った量が同じだから、コップから水はこぼれないのである。
これを踏まえて地球を考えてみると、自然の移り変わりの中で冬に雪が何世紀も降り積もると氷の山ができる。やがて春がきて暑い夏が来ると硬い氷も少しずつ溶け出していく。溶け出した水が多くなり川になる。上流から下流へ流れていき、河口付近を通り海へ流れる。海へ流れた水は温められ水蒸気になり、上空へ上がっていく。地上から離れれば離れるほど気温は下がっていく。冷やされた水蒸気は小さな氷となる。さらに上空へ昇ると小さな氷は段々大きな氷へと成長し雪になる。冬は地上から6度低くなるだけで雪が降ると考えられる。水は0度になると個体になる、つまり雪に変わるということだ。地上が6度でも雪が降るのである。そしてまた新たに降り積もった雪が固まり雪解け水として流れていく。このように自然は循環しているのである。
昨今、地球環境問題がクローズアップされている。佛教大学もある京都で制定された議定書には二酸化炭素を6%削減することがうたわれている。日本国民は戦後復興めざましく、生活水準が向上したことで、食事も栄養豊富で子どもたちは誰しも義務教育を受けることができ、高価なゲーム機を使って遊んでいる。人間は自然を利用して経済成長をしてきた。自然は元手がかからず、破壊すればしただけ利益を与えてくれるものだった。
たしかに人間の一部は豊かになった。しかし自然に近いところで生活をしている人間や鳥や獣、植物にいたるまで豊かになるどころか生活環境は悪化の一歩をたどっている、既に絶滅した種もあるほどだ。
なぜなら今まで、多くの先進国での発展は一部の人間を豊かにするだけでしかなった、すなわち豊かさの循環がされていなかったからである。今までは無限の価値があると思われてきた地球資源だが、そういう概念は知覚できないものと分かった。
したがって、これからすべきことは環境資源が枯渇すると困るのはわれわれ人間だけでないことを強く認識することだ。地球は有限の資源を持つものだという概念を持つことで、どのようにすれば資源を未来まで残すためにどのようにしたらいいのかと知覚することが、これから継続可能な社会にするために私たちが生きていくための論理が必要なのだと思う。
存在を存在として研究する形而上学を用いたアリストテレスは、哲学の開祖とするタレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスなどイオニア系の諸家を第一原理としていた。
ソクラテスは「大部分の人々は、自分が知恵を持っていないのに、なんでも知っているように錯覚している。ところが自分何も知らない、ということを知っているという点においては、知恵者である」無知の知といった。その後ゼノンの登場により、相手の主張をいったん受け入れて、底から矛盾を弾く出すことによって、それが不合理であることを示す「弁証法」をとった。
見出し9ではゼノンからアリストレテスに受け継がれた「二分割」「アキレウス」「飛ぶ矢」のパラドックスを理論的解決に導く。ゼノンの加算無限に関するパラドックスである「移動する者は目的点に到達するより前に、その半分の距離の点に到達しなければならない。半分の距離の点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、残りの距離の半分の点に到達しなければならない。その点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、さらに残りの距離の半分の点というように、次々と残りの距離の半分の点に到達しなければならない。
このことは限りなく続くから、走者は目的点に到達することはできない」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
この言葉の中で議論によって明らかにされた以下の3つの点を踏まえて考える。
① 観念は有限・無限にある、しかし有限は知覚できるが無限は存在を確かめられないので知覚できない。
② 概念は同じでなければならない。もし一方を知的世界のものとするならば、他方もやはり知的世界のものとする。
③ ゼノンの哲学では一つの真疑を証明するために、証明したいものを否定した論理を提出してから、それでは道理に反する結果が現れる間接証明法を使っている。
この3つの前提によって「二分割」をみると、最初の半分の点に到達するのは③の論法として理解できるが、限りがない、無限であるということをどのように示しているのだろうか。
①にあるように「無限」は存在を確かめられない、すなわち確かめられないものを証明できるはずもなく、走者は目的点に到達することができないのであれば、問題の設定に終わりがないということから、論理的解決にいたる。
ゼノンのパラドックスの解決を通じて今日の科学技術の基調をなすわれわれ哲学的認識体系が矛盾のない整合性を持つことを検証した。ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。先日スクーリングで環境経済学を学んだ。地球温暖化、海洋被害、大気汚染によるオゾン層破壊、毎日どこかで破壊されている自然。過去、人間が豊かさを求めておこなっていた活動が、現在では深刻な環境問題にまで発展している。ただやみくもに水を使うときは蛇口を開けたままにしない、電気はこまめに消そう、ごみのでないような買い物をしようなどの声を聞くが、今までしてきた生活を急に変えることはできない。
だが現状のままでは確実に地球人は破滅に向かっている。地球を壊さずに人間社会のみならず地球上のあらゆる生物が豊かになるためにはみんなの意識を変えねばならないのではないだろうか。そのために哲学から環境を考えてみたい。
テーブルの上に、水の入ったコップがある。その中に氷を入れる。水は並々と入っているが、表面張力で水はコップからこぼれない。そのまま時間がたつとどうなるだろうか。だんだん氷が溶けていくにしたがって水になる。すると、コップの中にある水の量が増える。コップの水はあふれるだろうか。表面張力を保っただけのコップの中の水が増えれば当然あふれるだろう。しかし水はあふれ出さない。
なぜなら氷が溶けて水は増えたが、逆に氷自身は溶けて小さくなり体積が減る。その溶けて水になった量と氷が溶けて体積が減った量が同じだから、コップから水はこぼれないのである。
これを踏まえて地球を考えてみると、自然の移り変わりの中で冬に雪が何世紀も降り積もると氷の山ができる。やがて春がきて暑い夏が来ると硬い氷も少しずつ溶け出していく。溶け出した水が多くなり川になる。上流から下流へ流れていき、河口付近を通り海へ流れる。海へ流れた水は温められ水蒸気になり、上空へ上がっていく。地上から離れれば離れるほど気温は下がっていく。冷やされた水蒸気は小さな氷となる。さらに上空へ昇ると小さな氷は段々大きな氷へと成長し雪になる。冬は地上から6度低くなるだけで雪が降ると考えられる。水は0度になると個体になる、つまり雪に変わるということだ。地上が6度でも雪が降るのである。そしてまた新たに降り積もった雪が固まり雪解け水として流れていく。このように自然は循環しているのである。
昨今、地球環境問題がクローズアップされている。佛教大学もある京都で制定された議定書には二酸化炭素を6%削減することがうたわれている。日本国民は戦後復興めざましく、生活水準が向上したことで、食事も栄養豊富で子どもたちは誰しも義務教育を受けることができ、高価なゲーム機を使って遊んでいる。人間は自然を利用して経済成長をしてきた。自然は元手がかからず、破壊すればしただけ利益を与えてくれるものだった。
たしかに人間の一部は豊かになった。しかし自然に近いところで生活をしている人間や鳥や獣、植物にいたるまで豊かになるどころか生活環境は悪化の一歩をたどっている、既に絶滅した種もあるほどだ。
なぜなら今まで、多くの先進国での発展は一部の人間を豊かにするだけでしかなった、すなわち豊かさの循環がされていなかったからである。今までは無限の価値があると思われてきた地球資源だが、そういう概念は知覚できないものと分かった。
したがって、これからすべきことは環境資源が枯渇すると困るのはわれわれ人間だけでないことを強く認識することだ。地球は有限の資源を持つものだという概念を持つことで、どのようにすれば資源を未来まで残すためにどのようにしたらいいのかと知覚することが、これから継続可能な社会にするために私たちが生きていくための論理が必要なのだと思う。
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