言葉の語源
日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。
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「そうだ。その通り!」という言葉が飛んできたのは、視覚障害者の付添いのための講習会の場である社会福祉協議会の2階の会議室には、十数人の講習生と7~8名ほどの目の不自由な方々、そして医師や看護婦の方がいた。
今まで目が見えていたけれども、事故にあったり病気になったり、急に視力が衰えてくる病気にかかり光を失ってしまう人がいる。それだけではなく生きる意欲もなくしてしまう、何とか外へ出るように何でもいいから人と話ができるような機会を持てないだろうか、と考えた医者や看護婦が集まって目の不自由な人に声をかけたのであった。
一人で出掛けるのが不安だったら誰かに頼もう、二人だったら安心できる。しかし毎回、違う人では不安が消えないので、できればパートナーを決めてほしいということで今回の催しが決定した。
素人でもいい、熟練したボランティアでなくてもいい、相手に寄り添ってくれる人ならそれでいいという気持ちが強かったと看護婦は話す。
私は専門的な知識は何も知らないので、少しでも勉強できるのならば教えてもらいたいという思いで講習会に臨んだ。
始めは小雨の降る中で六義園へお散歩、目の不自由な50代前半ぐらいの女性とのペアであった。「初めまして」の次に出た言葉は「私、怖いんです」であった。
「ここも初めてだし、こんなに遠くへ出てきたのも初めて。だからとても怖いんです」そこで初めて気がついた。そうか見えないということは怖いのだ。
よく聞くと薄ぼんやりと明かりだけは見えるけれども、何がどこにあるかは皆目見当がつかない、けれども中途で視力を失ったから木や草花や公園などを見たことがないわけではない。私はせめて少しでも頭の中にイメージできるようにと回りの風景を説明した。こちらには池があって向こうにあるのは千鳥橋。池の川面に枝垂れるように青々とした葉っぱを付けた大ぶりの枝が何本も見えこと。
庭園には小石が引き詰めてあるので歩くとジャリと音がする。そういうものも怖がっていたので帰り道も「ここは小石が引き詰めてあるんですよ。あと5メートルぐらい歩くとアスファルトになっています」。「ちょっと水たまりがあるので右に反れましょうか」などなどと、一歩一歩と歩くたびに状況説明をしながら進んでいった。
歩道の右側には自転車や個人宅のものであろう植木鉢も並べてあるので、狭い道幅がもっと狭くなる。「右側には自転車や植木鉢が並んでいるから、もっとこっちに寄ったようがいいですよ。どうしてこんなに並べておくのかしらね。道幅が半分になっちゃう」。
すると少し女性がくすくすと笑いだした。「そんなことまで言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。どうしてそんなことを言うんですか」と、尋ねるので「さっき、分からないから怖いと言っていたから。でも分かったからといって、その怖さが消えるわけではないけれども、少しは安心できるんじゃないかと思って」と、いうと女性は「あなたが一緒にいてくれてよかった」と言った。
それから地下鉄に乗って社会福祉協議会の会議室まで帰る。いつもなら下り階段は絶対、降りられないというので「もし、階段を踏み外して転げ落ちちゃったら私も一緒ですよ。代わりにけがをしてあげることはできないけれども、この手を握ったときから私も一緒に落っこちることになっているんですから」と言うと、また笑い出して見事に階段を下りることができたのだ。
私は心の中で、案外思ったよりも簡単だったじゃないか。こういう感じで相手をリラックスさせていけば、最後までうまく誘導して連れて行けるのではないかと思いながら、その後も回りの状況を事細かく女性に伝えながら歩いていった。
社会福祉協議会に着くころは小雨もやんで、明るくなってきた。このあとも同じような感じでいくのかと思っていたら、机をUの字に並べてある会議室に通された。
席に着くと、看護婦が今までの労をねぎらう言葉を言った。私はちょっと得意になった、何も知らない素人だったけれども、これぐらいできるんだよと。
端から順番に今日の感想を言い合った、あいにくの天気だったけれども、外へ行くことができてよかった。一人じゃないのがとても安心できた、などなどの言葉を聞くとお手伝いができてよかったなと安心した。
これから座談会のように和気あいあいと意見交換して終わりなのかと思っていたら、数枚の紙をホチキスでとめた書類の束を渡された。
そこには目の見えなくなった理由や、見えなくなったときの状況などが書かれていた。子どものころは普通に見えていたこと、おとなになって結婚して事故にあって見えなくなったこと、あるいは病気で視力が衰えてきて明るさしか見えなくなってしまったこと。しまいには自殺まで考えたこと。
朝、布団の中で目が覚めて、まぶたを開ける。しかし薄ぼんやりした世界だけが見える。布団から起き上がっても何がどこにあるか分からない、布団さえどこにあるのか分からない。立ち上がろうとしてもどうやったらいいのか分からない、無理やり立ち上がろうとしても均整を失って倒れる。体が委縮して動けなくなる。
そうなると今まで住んでいた家が自分のうちではないような感覚さえ出てくる。隣の部屋へ歩くだけでも怖くなる。目が見えるときに部屋に飾っていたお気に入りの人形を手で引っかけて落としてしまう。それを知らないでつまずいて転んだときは、自分がほんとうに情けなかった。
部屋から部屋へ移るときしゃべらず黙って歩くので、誰がいるのか分からない、家族まで怖くなる。この人はほんとうに家族なのだろうか。いっときは声を聞いて安心するが、その声もほんとうに夫のものなのだろうか、子どものものなのだろうか、恐怖におののき正常な判断ができなくなるのだ。
そんな中で目の不自由な人が外出するということは、文字通り決死の覚悟だったのだろうと初めて知った。目をつぶれば、目の不自由な人と同じような体験ができるからと、目をつぶるように言われた。けれどもそんなことは健常者には決してできないのである。
「だって目をつぶっていても、自分の意思で開けられるんですよ」そういったとき、冒頭の声が聞こえたのだ。「そうだ。その通り!」。体験談を読んで自分が何も分かってなかったことに気付かされた。確かに私がやっていた状況説明は悪いことではないだろう、しかしそれはそのときだけの気休めでしかない。なぜなら根本的なことは何も解決されてないからだ。表面上の笑顔が見えただけで私は満足していた。
とはいえ根本的な解決といっても、ほか思い付くことは自分の膈膜をとってあげるぐらいのことだ。しかし、死なねばならないとなると躊躇してしまう。彼女のためにこれ以上何ができるというのだろうかと考えた場合、答えに詰まってしまった。したがって利用者の立場に立っての視点というものの答はでないけれども、佛教大学へ入学して社会福祉を学んでいくことによって理解が深くなることを望むものである。
今まで目が見えていたけれども、事故にあったり病気になったり、急に視力が衰えてくる病気にかかり光を失ってしまう人がいる。それだけではなく生きる意欲もなくしてしまう、何とか外へ出るように何でもいいから人と話ができるような機会を持てないだろうか、と考えた医者や看護婦が集まって目の不自由な人に声をかけたのであった。
一人で出掛けるのが不安だったら誰かに頼もう、二人だったら安心できる。しかし毎回、違う人では不安が消えないので、できればパートナーを決めてほしいということで今回の催しが決定した。
素人でもいい、熟練したボランティアでなくてもいい、相手に寄り添ってくれる人ならそれでいいという気持ちが強かったと看護婦は話す。
私は専門的な知識は何も知らないので、少しでも勉強できるのならば教えてもらいたいという思いで講習会に臨んだ。
始めは小雨の降る中で六義園へお散歩、目の不自由な50代前半ぐらいの女性とのペアであった。「初めまして」の次に出た言葉は「私、怖いんです」であった。
「ここも初めてだし、こんなに遠くへ出てきたのも初めて。だからとても怖いんです」そこで初めて気がついた。そうか見えないということは怖いのだ。
よく聞くと薄ぼんやりと明かりだけは見えるけれども、何がどこにあるかは皆目見当がつかない、けれども中途で視力を失ったから木や草花や公園などを見たことがないわけではない。私はせめて少しでも頭の中にイメージできるようにと回りの風景を説明した。こちらには池があって向こうにあるのは千鳥橋。池の川面に枝垂れるように青々とした葉っぱを付けた大ぶりの枝が何本も見えこと。
庭園には小石が引き詰めてあるので歩くとジャリと音がする。そういうものも怖がっていたので帰り道も「ここは小石が引き詰めてあるんですよ。あと5メートルぐらい歩くとアスファルトになっています」。「ちょっと水たまりがあるので右に反れましょうか」などなどと、一歩一歩と歩くたびに状況説明をしながら進んでいった。
歩道の右側には自転車や個人宅のものであろう植木鉢も並べてあるので、狭い道幅がもっと狭くなる。「右側には自転車や植木鉢が並んでいるから、もっとこっちに寄ったようがいいですよ。どうしてこんなに並べておくのかしらね。道幅が半分になっちゃう」。
すると少し女性がくすくすと笑いだした。「そんなことまで言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。どうしてそんなことを言うんですか」と、尋ねるので「さっき、分からないから怖いと言っていたから。でも分かったからといって、その怖さが消えるわけではないけれども、少しは安心できるんじゃないかと思って」と、いうと女性は「あなたが一緒にいてくれてよかった」と言った。
それから地下鉄に乗って社会福祉協議会の会議室まで帰る。いつもなら下り階段は絶対、降りられないというので「もし、階段を踏み外して転げ落ちちゃったら私も一緒ですよ。代わりにけがをしてあげることはできないけれども、この手を握ったときから私も一緒に落っこちることになっているんですから」と言うと、また笑い出して見事に階段を下りることができたのだ。
私は心の中で、案外思ったよりも簡単だったじゃないか。こういう感じで相手をリラックスさせていけば、最後までうまく誘導して連れて行けるのではないかと思いながら、その後も回りの状況を事細かく女性に伝えながら歩いていった。
社会福祉協議会に着くころは小雨もやんで、明るくなってきた。このあとも同じような感じでいくのかと思っていたら、机をUの字に並べてある会議室に通された。
席に着くと、看護婦が今までの労をねぎらう言葉を言った。私はちょっと得意になった、何も知らない素人だったけれども、これぐらいできるんだよと。
端から順番に今日の感想を言い合った、あいにくの天気だったけれども、外へ行くことができてよかった。一人じゃないのがとても安心できた、などなどの言葉を聞くとお手伝いができてよかったなと安心した。
これから座談会のように和気あいあいと意見交換して終わりなのかと思っていたら、数枚の紙をホチキスでとめた書類の束を渡された。
そこには目の見えなくなった理由や、見えなくなったときの状況などが書かれていた。子どものころは普通に見えていたこと、おとなになって結婚して事故にあって見えなくなったこと、あるいは病気で視力が衰えてきて明るさしか見えなくなってしまったこと。しまいには自殺まで考えたこと。
朝、布団の中で目が覚めて、まぶたを開ける。しかし薄ぼんやりした世界だけが見える。布団から起き上がっても何がどこにあるか分からない、布団さえどこにあるのか分からない。立ち上がろうとしてもどうやったらいいのか分からない、無理やり立ち上がろうとしても均整を失って倒れる。体が委縮して動けなくなる。
そうなると今まで住んでいた家が自分のうちではないような感覚さえ出てくる。隣の部屋へ歩くだけでも怖くなる。目が見えるときに部屋に飾っていたお気に入りの人形を手で引っかけて落としてしまう。それを知らないでつまずいて転んだときは、自分がほんとうに情けなかった。
部屋から部屋へ移るときしゃべらず黙って歩くので、誰がいるのか分からない、家族まで怖くなる。この人はほんとうに家族なのだろうか。いっときは声を聞いて安心するが、その声もほんとうに夫のものなのだろうか、子どものものなのだろうか、恐怖におののき正常な判断ができなくなるのだ。
そんな中で目の不自由な人が外出するということは、文字通り決死の覚悟だったのだろうと初めて知った。目をつぶれば、目の不自由な人と同じような体験ができるからと、目をつぶるように言われた。けれどもそんなことは健常者には決してできないのである。
「だって目をつぶっていても、自分の意思で開けられるんですよ」そういったとき、冒頭の声が聞こえたのだ。「そうだ。その通り!」。体験談を読んで自分が何も分かってなかったことに気付かされた。確かに私がやっていた状況説明は悪いことではないだろう、しかしそれはそのときだけの気休めでしかない。なぜなら根本的なことは何も解決されてないからだ。表面上の笑顔が見えただけで私は満足していた。
とはいえ根本的な解決といっても、ほか思い付くことは自分の膈膜をとってあげるぐらいのことだ。しかし、死なねばならないとなると躊躇してしまう。彼女のためにこれ以上何ができるというのだろうかと考えた場合、答えに詰まってしまった。したがって利用者の立場に立っての視点というものの答はでないけれども、佛教大学へ入学して社会福祉を学んでいくことによって理解が深くなることを望むものである。
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