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言葉の語源

日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。

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(1)「読む能力」「書く能力」という2つの観点から遠隔学習の特徴を説明し、対面学習での「読む能力」「書く能力」との違いを説明しなさい。自分の学習経験を点検して説明すること。

 ⇒読む能力からみた遠隔学習の特徴は無言の学びだということだ。テキストや参考書、機関紙などに口は付いていないので何もしゃべらないし、語りかけても返ってくることはない。ただ文字面だけを追っているとほかのことに思考が向いてしまう。集中力がなければ正確に読み取ることはできない。
 そして書く能力からみた遠隔学習の特徴は書くということだ。学習以外にも遠隔学習には書くことが多い、レポートのほかにも試験や卒業論文、質問票や事務手続き、テキストを購入するときなどさまざまな場面で書くことを要求される。
 ところが読む能力からみた対面学習の特徴は言葉による学びだ。教師によるあいさつに始まってチョークで板書するときにも絶えず言葉が聞こえるのでその内容を読み解かねばならない。
 そして書く能力からみた対面学習の特徴は講義を受けながらノートを書くことだ。スクーリングや大学の講義、人材育成セミナーや座談会、耳から入ってくる教師の言葉を聞きながら手にはペンを握って文字をノートに書き起こす。ただ教師の言葉を書き写すだけではなく、何を言っているか、どのような事柄と関連するのかなど、聞いているのと同時に整理をしながら書き進めなければならない。
 ノートをとらないで聞いているとしばしば相手の表情や態度に惑わされる。何げないしぐさや言い間違いなどに気を取られて肝心な話を聞き逃したりすることもある。
 遠隔学習と対面学習の一番の違いである、しゃべりかけてくれないテキストとしゃべる教師だ。
 これを使い学習をするために欠かせない能力に「読む能力」と「書く能力」がある。誰でしていることだと言えるかもしれないが、対面学習と違い、語る言葉を持たぬテキストを相手にするには、やはり意識的に学ばねばその能力は向上しない。
 そのわけは大学レベルの研究書などは小説などと違い、読み手が自由に読んで解釈するものではなく、著者や読み手からいったん離れてその文章を正確に読解する必要がある<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P10。
 また「読む能力」は文字だけではなく映画などの映像、仕事で使うテープ起こしの音声、情報の詰まったコンピューターなどから情報を読む能力が高くなければ正確に理解することができない。
 正確に理解したということを証明するためにはどうしたらいいのだろうか。理解した事柄を他人にも分かるように明示せねばならない。そのため「書く能力」も必要になり、書くために参考文献などを集めてくる、これで準備が整ったかといえばそうではない。参考文献のどこに、いまから書こうとしているレポートの資料として使えるものがあるか点検せねばならない。運よく数行読んだだけで出てくるときもあれば1冊丸々読んだあと奥付にやっと出てくるかもしれない。あるいはその本には書かれてないかもしれない、検索力も書くためには欠かせない能力の一つなのだ。
 そうやって資料を集めていると、もっといいもの、もっと新しいあるいは別の視点で書かれているものはないかと探すことに夢中になり一向にレポートが進まない。
 ここに一つの「誤解」がある。それは、レポート・論文にしろ何にしろ書くという作業を頭の作業だと思っている「誤解」である。人間は頭だけで考えるのではない。手との共同で考えるのである。紙の上やディスプレーとの共同で考えるのである。<小笠原喜康、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文術、講談社現代新書、P166。
 このように遠隔学習では「静」であった学習が対面学習では「動」になるといえる。











(2)次に、インターネットやDVDなどのデジタル化したメディアを活用した学習は、書籍・雑誌など従来のメディアによる学習とどう異なるのか、「問う」という関心から考察しなさい。学習経験に照らして自分の意見を述べなさい。

 ⇒学ぶためには読む、書くのほかに考えることが必要、それは考えることがなぜ、どうして、という疑問から出発しているからだ。冷静になるとか精神統一をすればいいとかいえばそうではない。
 確かに有効な手段ではあるかもしれなけれども、それを行うことによって考える能力が上がるわけではない。
 例えば解決したいなぞがある、その謎を解き明かすにはどうしたらいいのだろうか、と「問う」のである。
 問うとは問題を自覚し発見しその解決を意識的に求めること。問うためには与えられた問題を解決するための問題解決能力とは別の能力、問題発見能力が必要であるといえる。この能力を養うことが学ぶことにおいて重要である。<『基礎教育I-VK』佛教大学通信教育部 第13回 問う1 なぜ「問う」なのか。
 「問う能力」「読む能力」「書く能力」という、この3つの能力は、互いに影響し合って向上する能力なのである。
 与えられた情報を読んで、ふと疑問がわいてくる、どうしてなんだろう、もしかしたらそうではないのかもしれない、情報を聞いたとき、根拠を問うことはとても大切だ。どのような主張なり意見なりにも、知的思考に基づいたものならば必ず理由あるいは言動のよりどころとなるものがある。
 またその根拠が正しいものなのか問うことも重要だ。あいまいなままにせず白日の下にさらすことで、その根拠が正確なものだといえるのだ。
 「聖人や賢人といわれる人人の本を読む場合には、彼等の言うことをむやみに有り難がるのではなくのではなく、批判的に読むことが大切である。そうでないと真理は分からないし、聖賢の書を読むことは、役に立つどころかかえって害になる<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P112」
 批判的というのは少々過激かもしれないけれども、どんな偉い人のいうことでも鵜呑みにしない、自分できちんと調べてこそ、真理の力が発揮できるというものである。
 批判的な問いには常識、あいまいさ、根拠、矛盾、経験、もし、異論を問うなど、与えられた情報を元にさまざまな問いを考えられる。
 問いを考えたら答を探すために調べなければならない。もちろん先生に聞くこともスクーリングで出会った仲間に聞くのもいいことだけれども、まずは自分で調べることから始める。
 手元にある国語辞典や漢和辞典あるいは古語辞典、英和辞典も役に立つであろう。さもなくば図書館へ出掛けてもいい。
 問いを個条書きに書いたカードを何枚か作って並べる「問題map」は、順序立てて物事を見られるのでレポートや論文の全体が見えては把握しやすいだろう。
 メディア時代の昨今ではパソコンを使ってDVDの百科事典やインターネットの検索エンジンなども調べるのに有効だ。
 例えば参考文献として借りた「小笠原喜康著、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文編 講談社現代新書」を図書館で探しても全然見つからなかったけれども、インターネットで図書館内の所定の検索欄に文献名を入力するとすぐに出てくる。
 ボタン一つで欲しい文献がどこの図書館にあるのか一目でわかる、時間の短縮もでき効率的だ。
 yahoo!japanという検索エンジンでは理論演算というものがあり、調べたい単語が複数一致するもの、どちらか片方を検索するもの、または含まない語句を指定したり、優先順位を付けるなど演算子を付けることでかなり絞った検索ができるようになっている。
 仕事でパソコンを使っているものにはごく自然なことだけれども、図書館で日本十進分類法に沿って探し物をしながら本棚をめぐりながら偶然、目にとまった本を読むのもひそかな楽しみである。
 それは現在の「問う」ことに関連のないことでも、未来の「問い」には絶対役に立つものである。
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