言葉の語源
日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。
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痛む
自分のいたみ
傷む
他人のいたみ
自分のいたみ
傷む
他人のいたみ
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柔らかい
状態がもとに戻る
軟らかい
状態がもとに戻らない
状態がもとに戻る
軟らかい
状態がもとに戻らない
教学相長ず(きょうがくあいちょうず)
教えることと学ぶことが、
うまくかみ合ってこそ、
知徳は助長発展するものである。
人を教えることは自分の修行にもなるということ。
⇒第一章「無限と連続-その感性と論理-」見出しは12に分かれている。1から3までは「無限」という言葉の意味を明確にするために、有限である「数」という概念を獲得し、それを数字として表するまでに発展したことを記述している。見出し4から8までは無限と連続の概念を確立するに至る過程を追跡する。
存在を存在として研究する形而上学を用いたアリストテレスは、哲学の開祖とするタレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスなどイオニア系の諸家を第一原理としていた。
ソクラテスは「大部分の人々は、自分が知恵を持っていないのに、なんでも知っているように錯覚している。ところが自分何も知らない、ということを知っているという点においては、知恵者である」無知の知といった。その後ゼノンの登場により、相手の主張をいったん受け入れて、底から矛盾を弾く出すことによって、それが不合理であることを示す「弁証法」をとった。
見出し9ではゼノンからアリストレテスに受け継がれた「二分割」「アキレウス」「飛ぶ矢」のパラドックスを理論的解決に導く。ゼノンの加算無限に関するパラドックスである「移動する者は目的点に到達するより前に、その半分の距離の点に到達しなければならない。半分の距離の点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、残りの距離の半分の点に到達しなければならない。その点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、さらに残りの距離の半分の点というように、次々と残りの距離の半分の点に到達しなければならない。
このことは限りなく続くから、走者は目的点に到達することはできない」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
この言葉の中で議論によって明らかにされた以下の3つの点を踏まえて考える。
① 観念は有限・無限にある、しかし有限は知覚できるが無限は存在を確かめられないので知覚できない。
② 概念は同じでなければならない。もし一方を知的世界のものとするならば、他方もやはり知的世界のものとする。
③ ゼノンの哲学では一つの真疑を証明するために、証明したいものを否定した論理を提出してから、それでは道理に反する結果が現れる間接証明法を使っている。
この3つの前提によって「二分割」をみると、最初の半分の点に到達するのは③の論法として理解できるが、限りがない、無限であるということをどのように示しているのだろうか。
①にあるように「無限」は存在を確かめられない、すなわち確かめられないものを証明できるはずもなく、走者は目的点に到達することができないのであれば、問題の設定に終わりがないということから、論理的解決にいたる。
ゼノンのパラドックスの解決を通じて今日の科学技術の基調をなすわれわれ哲学的認識体系が矛盾のない整合性を持つことを検証した。ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。先日スクーリングで環境経済学を学んだ。地球温暖化、海洋被害、大気汚染によるオゾン層破壊、毎日どこかで破壊されている自然。過去、人間が豊かさを求めておこなっていた活動が、現在では深刻な環境問題にまで発展している。ただやみくもに水を使うときは蛇口を開けたままにしない、電気はこまめに消そう、ごみのでないような買い物をしようなどの声を聞くが、今までしてきた生活を急に変えることはできない。
だが現状のままでは確実に地球人は破滅に向かっている。地球を壊さずに人間社会のみならず地球上のあらゆる生物が豊かになるためにはみんなの意識を変えねばならないのではないだろうか。そのために哲学から環境を考えてみたい。
テーブルの上に、水の入ったコップがある。その中に氷を入れる。水は並々と入っているが、表面張力で水はコップからこぼれない。そのまま時間がたつとどうなるだろうか。だんだん氷が溶けていくにしたがって水になる。すると、コップの中にある水の量が増える。コップの水はあふれるだろうか。表面張力を保っただけのコップの中の水が増えれば当然あふれるだろう。しかし水はあふれ出さない。
なぜなら氷が溶けて水は増えたが、逆に氷自身は溶けて小さくなり体積が減る。その溶けて水になった量と氷が溶けて体積が減った量が同じだから、コップから水はこぼれないのである。
これを踏まえて地球を考えてみると、自然の移り変わりの中で冬に雪が何世紀も降り積もると氷の山ができる。やがて春がきて暑い夏が来ると硬い氷も少しずつ溶け出していく。溶け出した水が多くなり川になる。上流から下流へ流れていき、河口付近を通り海へ流れる。海へ流れた水は温められ水蒸気になり、上空へ上がっていく。地上から離れれば離れるほど気温は下がっていく。冷やされた水蒸気は小さな氷となる。さらに上空へ昇ると小さな氷は段々大きな氷へと成長し雪になる。冬は地上から6度低くなるだけで雪が降ると考えられる。水は0度になると個体になる、つまり雪に変わるということだ。地上が6度でも雪が降るのである。そしてまた新たに降り積もった雪が固まり雪解け水として流れていく。このように自然は循環しているのである。
昨今、地球環境問題がクローズアップされている。佛教大学もある京都で制定された議定書には二酸化炭素を6%削減することがうたわれている。日本国民は戦後復興めざましく、生活水準が向上したことで、食事も栄養豊富で子どもたちは誰しも義務教育を受けることができ、高価なゲーム機を使って遊んでいる。人間は自然を利用して経済成長をしてきた。自然は元手がかからず、破壊すればしただけ利益を与えてくれるものだった。
たしかに人間の一部は豊かになった。しかし自然に近いところで生活をしている人間や鳥や獣、植物にいたるまで豊かになるどころか生活環境は悪化の一歩をたどっている、既に絶滅した種もあるほどだ。
なぜなら今まで、多くの先進国での発展は一部の人間を豊かにするだけでしかなった、すなわち豊かさの循環がされていなかったからである。今までは無限の価値があると思われてきた地球資源だが、そういう概念は知覚できないものと分かった。
したがって、これからすべきことは環境資源が枯渇すると困るのはわれわれ人間だけでないことを強く認識することだ。地球は有限の資源を持つものだという概念を持つことで、どのようにすれば資源を未来まで残すためにどのようにしたらいいのかと知覚することが、これから継続可能な社会にするために私たちが生きていくための論理が必要なのだと思う。
存在を存在として研究する形而上学を用いたアリストテレスは、哲学の開祖とするタレス、ヘラクレイトス、エンペドクレスなどイオニア系の諸家を第一原理としていた。
ソクラテスは「大部分の人々は、自分が知恵を持っていないのに、なんでも知っているように錯覚している。ところが自分何も知らない、ということを知っているという点においては、知恵者である」無知の知といった。その後ゼノンの登場により、相手の主張をいったん受け入れて、底から矛盾を弾く出すことによって、それが不合理であることを示す「弁証法」をとった。
見出し9ではゼノンからアリストレテスに受け継がれた「二分割」「アキレウス」「飛ぶ矢」のパラドックスを理論的解決に導く。ゼノンの加算無限に関するパラドックスである「移動する者は目的点に到達するより前に、その半分の距離の点に到達しなければならない。半分の距離の点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、残りの距離の半分の点に到達しなければならない。その点に到達した走者は、目的点に到達するより前に、さらに残りの距離の半分の点というように、次々と残りの距離の半分の点に到達しなければならない。
このことは限りなく続くから、走者は目的点に到達することはできない」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
この言葉の中で議論によって明らかにされた以下の3つの点を踏まえて考える。
① 観念は有限・無限にある、しかし有限は知覚できるが無限は存在を確かめられないので知覚できない。
② 概念は同じでなければならない。もし一方を知的世界のものとするならば、他方もやはり知的世界のものとする。
③ ゼノンの哲学では一つの真疑を証明するために、証明したいものを否定した論理を提出してから、それでは道理に反する結果が現れる間接証明法を使っている。
この3つの前提によって「二分割」をみると、最初の半分の点に到達するのは③の論法として理解できるが、限りがない、無限であるということをどのように示しているのだろうか。
①にあるように「無限」は存在を確かめられない、すなわち確かめられないものを証明できるはずもなく、走者は目的点に到達することができないのであれば、問題の設定に終わりがないということから、論理的解決にいたる。
ゼノンのパラドックスの解決を通じて今日の科学技術の基調をなすわれわれ哲学的認識体系が矛盾のない整合性を持つことを検証した。ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。先日スクーリングで環境経済学を学んだ。地球温暖化、海洋被害、大気汚染によるオゾン層破壊、毎日どこかで破壊されている自然。過去、人間が豊かさを求めておこなっていた活動が、現在では深刻な環境問題にまで発展している。ただやみくもに水を使うときは蛇口を開けたままにしない、電気はこまめに消そう、ごみのでないような買い物をしようなどの声を聞くが、今までしてきた生活を急に変えることはできない。
だが現状のままでは確実に地球人は破滅に向かっている。地球を壊さずに人間社会のみならず地球上のあらゆる生物が豊かになるためにはみんなの意識を変えねばならないのではないだろうか。そのために哲学から環境を考えてみたい。
テーブルの上に、水の入ったコップがある。その中に氷を入れる。水は並々と入っているが、表面張力で水はコップからこぼれない。そのまま時間がたつとどうなるだろうか。だんだん氷が溶けていくにしたがって水になる。すると、コップの中にある水の量が増える。コップの水はあふれるだろうか。表面張力を保っただけのコップの中の水が増えれば当然あふれるだろう。しかし水はあふれ出さない。
なぜなら氷が溶けて水は増えたが、逆に氷自身は溶けて小さくなり体積が減る。その溶けて水になった量と氷が溶けて体積が減った量が同じだから、コップから水はこぼれないのである。
これを踏まえて地球を考えてみると、自然の移り変わりの中で冬に雪が何世紀も降り積もると氷の山ができる。やがて春がきて暑い夏が来ると硬い氷も少しずつ溶け出していく。溶け出した水が多くなり川になる。上流から下流へ流れていき、河口付近を通り海へ流れる。海へ流れた水は温められ水蒸気になり、上空へ上がっていく。地上から離れれば離れるほど気温は下がっていく。冷やされた水蒸気は小さな氷となる。さらに上空へ昇ると小さな氷は段々大きな氷へと成長し雪になる。冬は地上から6度低くなるだけで雪が降ると考えられる。水は0度になると個体になる、つまり雪に変わるということだ。地上が6度でも雪が降るのである。そしてまた新たに降り積もった雪が固まり雪解け水として流れていく。このように自然は循環しているのである。
昨今、地球環境問題がクローズアップされている。佛教大学もある京都で制定された議定書には二酸化炭素を6%削減することがうたわれている。日本国民は戦後復興めざましく、生活水準が向上したことで、食事も栄養豊富で子どもたちは誰しも義務教育を受けることができ、高価なゲーム機を使って遊んでいる。人間は自然を利用して経済成長をしてきた。自然は元手がかからず、破壊すればしただけ利益を与えてくれるものだった。
たしかに人間の一部は豊かになった。しかし自然に近いところで生活をしている人間や鳥や獣、植物にいたるまで豊かになるどころか生活環境は悪化の一歩をたどっている、既に絶滅した種もあるほどだ。
なぜなら今まで、多くの先進国での発展は一部の人間を豊かにするだけでしかなった、すなわち豊かさの循環がされていなかったからである。今までは無限の価値があると思われてきた地球資源だが、そういう概念は知覚できないものと分かった。
したがって、これからすべきことは環境資源が枯渇すると困るのはわれわれ人間だけでないことを強く認識することだ。地球は有限の資源を持つものだという概念を持つことで、どのようにすれば資源を未来まで残すためにどのようにしたらいいのかと知覚することが、これから継続可能な社会にするために私たちが生きていくための論理が必要なのだと思う。
「そうだ。その通り!」という言葉が飛んできたのは、視覚障害者の付添いのための講習会の場である社会福祉協議会の2階の会議室には、十数人の講習生と7~8名ほどの目の不自由な方々、そして医師や看護婦の方がいた。
今まで目が見えていたけれども、事故にあったり病気になったり、急に視力が衰えてくる病気にかかり光を失ってしまう人がいる。それだけではなく生きる意欲もなくしてしまう、何とか外へ出るように何でもいいから人と話ができるような機会を持てないだろうか、と考えた医者や看護婦が集まって目の不自由な人に声をかけたのであった。
一人で出掛けるのが不安だったら誰かに頼もう、二人だったら安心できる。しかし毎回、違う人では不安が消えないので、できればパートナーを決めてほしいということで今回の催しが決定した。
素人でもいい、熟練したボランティアでなくてもいい、相手に寄り添ってくれる人ならそれでいいという気持ちが強かったと看護婦は話す。
私は専門的な知識は何も知らないので、少しでも勉強できるのならば教えてもらいたいという思いで講習会に臨んだ。
始めは小雨の降る中で六義園へお散歩、目の不自由な50代前半ぐらいの女性とのペアであった。「初めまして」の次に出た言葉は「私、怖いんです」であった。
「ここも初めてだし、こんなに遠くへ出てきたのも初めて。だからとても怖いんです」そこで初めて気がついた。そうか見えないということは怖いのだ。
よく聞くと薄ぼんやりと明かりだけは見えるけれども、何がどこにあるかは皆目見当がつかない、けれども中途で視力を失ったから木や草花や公園などを見たことがないわけではない。私はせめて少しでも頭の中にイメージできるようにと回りの風景を説明した。こちらには池があって向こうにあるのは千鳥橋。池の川面に枝垂れるように青々とした葉っぱを付けた大ぶりの枝が何本も見えこと。
庭園には小石が引き詰めてあるので歩くとジャリと音がする。そういうものも怖がっていたので帰り道も「ここは小石が引き詰めてあるんですよ。あと5メートルぐらい歩くとアスファルトになっています」。「ちょっと水たまりがあるので右に反れましょうか」などなどと、一歩一歩と歩くたびに状況説明をしながら進んでいった。
歩道の右側には自転車や個人宅のものであろう植木鉢も並べてあるので、狭い道幅がもっと狭くなる。「右側には自転車や植木鉢が並んでいるから、もっとこっちに寄ったようがいいですよ。どうしてこんなに並べておくのかしらね。道幅が半分になっちゃう」。
すると少し女性がくすくすと笑いだした。「そんなことまで言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。どうしてそんなことを言うんですか」と、尋ねるので「さっき、分からないから怖いと言っていたから。でも分かったからといって、その怖さが消えるわけではないけれども、少しは安心できるんじゃないかと思って」と、いうと女性は「あなたが一緒にいてくれてよかった」と言った。
それから地下鉄に乗って社会福祉協議会の会議室まで帰る。いつもなら下り階段は絶対、降りられないというので「もし、階段を踏み外して転げ落ちちゃったら私も一緒ですよ。代わりにけがをしてあげることはできないけれども、この手を握ったときから私も一緒に落っこちることになっているんですから」と言うと、また笑い出して見事に階段を下りることができたのだ。
私は心の中で、案外思ったよりも簡単だったじゃないか。こういう感じで相手をリラックスさせていけば、最後までうまく誘導して連れて行けるのではないかと思いながら、その後も回りの状況を事細かく女性に伝えながら歩いていった。
社会福祉協議会に着くころは小雨もやんで、明るくなってきた。このあとも同じような感じでいくのかと思っていたら、机をUの字に並べてある会議室に通された。
席に着くと、看護婦が今までの労をねぎらう言葉を言った。私はちょっと得意になった、何も知らない素人だったけれども、これぐらいできるんだよと。
端から順番に今日の感想を言い合った、あいにくの天気だったけれども、外へ行くことができてよかった。一人じゃないのがとても安心できた、などなどの言葉を聞くとお手伝いができてよかったなと安心した。
これから座談会のように和気あいあいと意見交換して終わりなのかと思っていたら、数枚の紙をホチキスでとめた書類の束を渡された。
そこには目の見えなくなった理由や、見えなくなったときの状況などが書かれていた。子どものころは普通に見えていたこと、おとなになって結婚して事故にあって見えなくなったこと、あるいは病気で視力が衰えてきて明るさしか見えなくなってしまったこと。しまいには自殺まで考えたこと。
朝、布団の中で目が覚めて、まぶたを開ける。しかし薄ぼんやりした世界だけが見える。布団から起き上がっても何がどこにあるか分からない、布団さえどこにあるのか分からない。立ち上がろうとしてもどうやったらいいのか分からない、無理やり立ち上がろうとしても均整を失って倒れる。体が委縮して動けなくなる。
そうなると今まで住んでいた家が自分のうちではないような感覚さえ出てくる。隣の部屋へ歩くだけでも怖くなる。目が見えるときに部屋に飾っていたお気に入りの人形を手で引っかけて落としてしまう。それを知らないでつまずいて転んだときは、自分がほんとうに情けなかった。
部屋から部屋へ移るときしゃべらず黙って歩くので、誰がいるのか分からない、家族まで怖くなる。この人はほんとうに家族なのだろうか。いっときは声を聞いて安心するが、その声もほんとうに夫のものなのだろうか、子どものものなのだろうか、恐怖におののき正常な判断ができなくなるのだ。
そんな中で目の不自由な人が外出するということは、文字通り決死の覚悟だったのだろうと初めて知った。目をつぶれば、目の不自由な人と同じような体験ができるからと、目をつぶるように言われた。けれどもそんなことは健常者には決してできないのである。
「だって目をつぶっていても、自分の意思で開けられるんですよ」そういったとき、冒頭の声が聞こえたのだ。「そうだ。その通り!」。体験談を読んで自分が何も分かってなかったことに気付かされた。確かに私がやっていた状況説明は悪いことではないだろう、しかしそれはそのときだけの気休めでしかない。なぜなら根本的なことは何も解決されてないからだ。表面上の笑顔が見えただけで私は満足していた。
とはいえ根本的な解決といっても、ほか思い付くことは自分の膈膜をとってあげるぐらいのことだ。しかし、死なねばならないとなると躊躇してしまう。彼女のためにこれ以上何ができるというのだろうかと考えた場合、答えに詰まってしまった。したがって利用者の立場に立っての視点というものの答はでないけれども、佛教大学へ入学して社会福祉を学んでいくことによって理解が深くなることを望むものである。
今まで目が見えていたけれども、事故にあったり病気になったり、急に視力が衰えてくる病気にかかり光を失ってしまう人がいる。それだけではなく生きる意欲もなくしてしまう、何とか外へ出るように何でもいいから人と話ができるような機会を持てないだろうか、と考えた医者や看護婦が集まって目の不自由な人に声をかけたのであった。
一人で出掛けるのが不安だったら誰かに頼もう、二人だったら安心できる。しかし毎回、違う人では不安が消えないので、できればパートナーを決めてほしいということで今回の催しが決定した。
素人でもいい、熟練したボランティアでなくてもいい、相手に寄り添ってくれる人ならそれでいいという気持ちが強かったと看護婦は話す。
私は専門的な知識は何も知らないので、少しでも勉強できるのならば教えてもらいたいという思いで講習会に臨んだ。
始めは小雨の降る中で六義園へお散歩、目の不自由な50代前半ぐらいの女性とのペアであった。「初めまして」の次に出た言葉は「私、怖いんです」であった。
「ここも初めてだし、こんなに遠くへ出てきたのも初めて。だからとても怖いんです」そこで初めて気がついた。そうか見えないということは怖いのだ。
よく聞くと薄ぼんやりと明かりだけは見えるけれども、何がどこにあるかは皆目見当がつかない、けれども中途で視力を失ったから木や草花や公園などを見たことがないわけではない。私はせめて少しでも頭の中にイメージできるようにと回りの風景を説明した。こちらには池があって向こうにあるのは千鳥橋。池の川面に枝垂れるように青々とした葉っぱを付けた大ぶりの枝が何本も見えこと。
庭園には小石が引き詰めてあるので歩くとジャリと音がする。そういうものも怖がっていたので帰り道も「ここは小石が引き詰めてあるんですよ。あと5メートルぐらい歩くとアスファルトになっています」。「ちょっと水たまりがあるので右に反れましょうか」などなどと、一歩一歩と歩くたびに状況説明をしながら進んでいった。
歩道の右側には自転車や個人宅のものであろう植木鉢も並べてあるので、狭い道幅がもっと狭くなる。「右側には自転車や植木鉢が並んでいるから、もっとこっちに寄ったようがいいですよ。どうしてこんなに並べておくのかしらね。道幅が半分になっちゃう」。
すると少し女性がくすくすと笑いだした。「そんなことまで言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。どうしてそんなことを言うんですか」と、尋ねるので「さっき、分からないから怖いと言っていたから。でも分かったからといって、その怖さが消えるわけではないけれども、少しは安心できるんじゃないかと思って」と、いうと女性は「あなたが一緒にいてくれてよかった」と言った。
それから地下鉄に乗って社会福祉協議会の会議室まで帰る。いつもなら下り階段は絶対、降りられないというので「もし、階段を踏み外して転げ落ちちゃったら私も一緒ですよ。代わりにけがをしてあげることはできないけれども、この手を握ったときから私も一緒に落っこちることになっているんですから」と言うと、また笑い出して見事に階段を下りることができたのだ。
私は心の中で、案外思ったよりも簡単だったじゃないか。こういう感じで相手をリラックスさせていけば、最後までうまく誘導して連れて行けるのではないかと思いながら、その後も回りの状況を事細かく女性に伝えながら歩いていった。
社会福祉協議会に着くころは小雨もやんで、明るくなってきた。このあとも同じような感じでいくのかと思っていたら、机をUの字に並べてある会議室に通された。
席に着くと、看護婦が今までの労をねぎらう言葉を言った。私はちょっと得意になった、何も知らない素人だったけれども、これぐらいできるんだよと。
端から順番に今日の感想を言い合った、あいにくの天気だったけれども、外へ行くことができてよかった。一人じゃないのがとても安心できた、などなどの言葉を聞くとお手伝いができてよかったなと安心した。
これから座談会のように和気あいあいと意見交換して終わりなのかと思っていたら、数枚の紙をホチキスでとめた書類の束を渡された。
そこには目の見えなくなった理由や、見えなくなったときの状況などが書かれていた。子どものころは普通に見えていたこと、おとなになって結婚して事故にあって見えなくなったこと、あるいは病気で視力が衰えてきて明るさしか見えなくなってしまったこと。しまいには自殺まで考えたこと。
朝、布団の中で目が覚めて、まぶたを開ける。しかし薄ぼんやりした世界だけが見える。布団から起き上がっても何がどこにあるか分からない、布団さえどこにあるのか分からない。立ち上がろうとしてもどうやったらいいのか分からない、無理やり立ち上がろうとしても均整を失って倒れる。体が委縮して動けなくなる。
そうなると今まで住んでいた家が自分のうちではないような感覚さえ出てくる。隣の部屋へ歩くだけでも怖くなる。目が見えるときに部屋に飾っていたお気に入りの人形を手で引っかけて落としてしまう。それを知らないでつまずいて転んだときは、自分がほんとうに情けなかった。
部屋から部屋へ移るときしゃべらず黙って歩くので、誰がいるのか分からない、家族まで怖くなる。この人はほんとうに家族なのだろうか。いっときは声を聞いて安心するが、その声もほんとうに夫のものなのだろうか、子どものものなのだろうか、恐怖におののき正常な判断ができなくなるのだ。
そんな中で目の不自由な人が外出するということは、文字通り決死の覚悟だったのだろうと初めて知った。目をつぶれば、目の不自由な人と同じような体験ができるからと、目をつぶるように言われた。けれどもそんなことは健常者には決してできないのである。
「だって目をつぶっていても、自分の意思で開けられるんですよ」そういったとき、冒頭の声が聞こえたのだ。「そうだ。その通り!」。体験談を読んで自分が何も分かってなかったことに気付かされた。確かに私がやっていた状況説明は悪いことではないだろう、しかしそれはそのときだけの気休めでしかない。なぜなら根本的なことは何も解決されてないからだ。表面上の笑顔が見えただけで私は満足していた。
とはいえ根本的な解決といっても、ほか思い付くことは自分の膈膜をとってあげるぐらいのことだ。しかし、死なねばならないとなると躊躇してしまう。彼女のためにこれ以上何ができるというのだろうかと考えた場合、答えに詰まってしまった。したがって利用者の立場に立っての視点というものの答はでないけれども、佛教大学へ入学して社会福祉を学んでいくことによって理解が深くなることを望むものである。
かつてイギリスの元首相、チャーチルが言った言葉がある「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況が分かる」と。日本の高齢者の抱えている問題や、それへの社会福祉の状況から、私たちはこの言葉の持つ意味をしっかりと見極めることが肝要である。福祉は今や文化である。(福祉士養成講座編集委員会編『新版 介護福祉士養成講座1社会福祉概論』中央法規出版)戦後の昭和30年代半ばを境に日本の生活は大きく変わってきた。
かつて家内工業だったものがそれだけでは生活が成り立たなくなり、若者は職を求めて都市へ移り住み、労働に見合った賃金報酬で暮らす、賃金生活者が増える。
明日のお米の心配をしなくなり収入が安定する一方、その収入の範囲でしか生活が成り立たなくなってくる。子どもを多く欲しいと思っていても生み育てる生活費や、能力を伸ばすために教育費を拠出することが難しくなってきた。集団就職で都会へ出てきた若者はそのまま住み着き結婚する者も多く、子どもができても故郷へ戻る者はほんの一握りに過ぎない。
田舎に取り残された両親は年月と共に年老いていく、あるいは配偶者を亡くし一人暮らしが多くなってくると世帯数は増加するが世帯人数は減少してくるという一人暮らしが多くなってくる。
65歳以上の人口割合が7パーセントから14%に達するまでに要する年数は、フランスでは104年も掛かっているのに対して日本ではたったの24年、実に四分の一の短い年数で高齢化社会を迎えたのである。これは世界でも類を見ないスピードだ。
また女性の社会進出も目覚ましい年代であるにもかかわらず、結婚すると企業から退職を迫られることもある、運よく結婚後も仕事に従事することができたとしても今度は、妊娠、出産、育児がのし掛かる。それに対して預かり施設の減少、小学校でのいじめなどのニュースを聞くとあえて出産の道を選ばなくてもいいのではないだろうかという女性も多くなってくる。
反対に子どもが欲しくてもできない世帯も増えている、経済的な理由もさることながら、今まで女性側の原因とされてきた不妊は、実は男性側にも問題があることが分かってきた。
一時期ドラマにもなった「成田離婚」は、海外での新婚旅行から帰ってきて成田国際空港へ降りたった途端離婚を言い渡される男性が多いことから名付けられた。
以前は結婚といっても見合いが多く結婚するまで清く正しくということが尊ばれた時代、けれども婚前交渉もある程度は必要だと考える今、新婚旅行を終えてから二人の生活を考えるときの夫婦のギャップが早々に芽生えてくる。大役をやり終えたという憔悴した夫と、これから子供を産み育てていかねばと考える妻の考えとのはざまに大きな溝ができてくる。
このままでいいのだろうか。確かに戦後の復興目覚ましく急成長したけれども、それは日本人として適切な成長になっているのだろうか。
現代のように物質的な豊かさが飽和し始め、経済が成熟期ないし安定期に入ってくると、これまでとは大きく異なって、長期的な将来を予測することが可能となり、また必要になってくる。つまり、これまで以上に「長期的な生活設計」というものをすることが可能な時代に、現代の日本はなりつつあるのであり、逆にいえば、そうした生活設計を立てることの「必要性」もまた大きくなっているのである。(広井良典『日本の社会保障』岩波新書)
こうした時代の移り変わりを考えるようになったのは息子が大学2年になるときに言った言葉がきっかけである。「就職するまで年金の支払いは待ってもらおうかな」。私が息子と同じ年代のころはもう仕事に従事していたので有無をいわさず、社会保険、雇用保険そして厚生年金は三点セットで給料から天引きされていたので、気にすることなどまったくなく、また学生身分の同級生はそんなことより自分の楽しみのために使おうと考えているのが大部分だった。
今ではどこへ行っても飲食店が建ち並び食べたいものが食べられる、着たい洋服もお金を出せば買える、電車や飛行機に乗れば外国へも旅行できる、小さいころからそうやって育ってきた子どもたちには当たり前の生活である、それを大人になっても維持しようとする安定さを求めるようになる。安定を求めるということは、言い換えればさまざまなリスクに対応する備えをすることにほかならないからである。
生活設計を考える上で個人としての備えも大切であるけれども、公的機関が対応すべきこともある。この後者に当たるもの社会保障である。社会保障は大きく分けると4つある。所得保障、医療保障、公衆衛生そして社会福祉である。
第2次世界大戦後に制定された社会福祉という概念は主に経済的に困窮している者を救済する意味合いが強かったものが、例えばよりおいしいものを食べたいという欲求や静かで落ち着いた家に住みたい、人の上に立ちたいなど積極的な欲求の目的を達成するため、あるいは欠けたところを補完する教育やサービスを与える事業へと変化していった。
以前、私はボランティアとして目の見えない人のために病院へ診察に行くときなどの付添いをしていた。それを聞いた知人は「私は、そんなたいそうな心を持っていない。ボランティアをする人を尊敬するよ」と、言った。確かに日本人は奥ゆかしいので「私が付き添います」と、こちらから言いだせる人は少ないかもしれない、悪くすれば親切の押し売りと取られかねない。
しかし、そういった知人は、私に比べるともっと心根の優しい人である。一緒に編み物教室に通っていて、作業の遅い人をいつも気にかけてくれる。「この先はどうやって編むの?」、自分が編み物をしていてもいやな顔一つせず教えてくれる。いつもはマシンガンのようにおしゃべりな彼女がこのときばかりはポエムでも読むがごとく、ゆっくり丁寧にはっきりと明確に順序よく教えてくれるのである。
そんな彼女によくいったものである。「あなただってしっかり私にボランティアをしてくれてるじゃない。この前も落としたハンカチを拾ってくれたでしょう。『落ちましたよ』と拾ってくれる、それこそがボランティアなんだから」、そういうと怪訝そうな顔をして私を見詰めるけれども、ほんとうなのだ。何もご大層なことをしているわけではない。私の空いている時間と誰かに付き添って欲しいという人の時間が合致したとき、初めて成り立つものである。
どこの市長だか失念したが、以前「ボランティアというのは『志願兵』という意味なんですよ」と教えてくれた。そのときはたいそうびっくりしたが、私にとってはなるほどというところもある。
誰から強制されているものではない、自らの意思で現地に赴き目の見えない人やお年寄り、知的障害や身体障害の子どもと触れ合い、共に笑い悩んだりすることはほんとうに喜びなのである。それはこんな私でも誰かの役に立っているという喜びがそうさせるのではないだろうか。
したがってそれは、これからの日本人が社会福祉に向かっていくための適切な成長だといえると思う。
かつて家内工業だったものがそれだけでは生活が成り立たなくなり、若者は職を求めて都市へ移り住み、労働に見合った賃金報酬で暮らす、賃金生活者が増える。
明日のお米の心配をしなくなり収入が安定する一方、その収入の範囲でしか生活が成り立たなくなってくる。子どもを多く欲しいと思っていても生み育てる生活費や、能力を伸ばすために教育費を拠出することが難しくなってきた。集団就職で都会へ出てきた若者はそのまま住み着き結婚する者も多く、子どもができても故郷へ戻る者はほんの一握りに過ぎない。
田舎に取り残された両親は年月と共に年老いていく、あるいは配偶者を亡くし一人暮らしが多くなってくると世帯数は増加するが世帯人数は減少してくるという一人暮らしが多くなってくる。
65歳以上の人口割合が7パーセントから14%に達するまでに要する年数は、フランスでは104年も掛かっているのに対して日本ではたったの24年、実に四分の一の短い年数で高齢化社会を迎えたのである。これは世界でも類を見ないスピードだ。
また女性の社会進出も目覚ましい年代であるにもかかわらず、結婚すると企業から退職を迫られることもある、運よく結婚後も仕事に従事することができたとしても今度は、妊娠、出産、育児がのし掛かる。それに対して預かり施設の減少、小学校でのいじめなどのニュースを聞くとあえて出産の道を選ばなくてもいいのではないだろうかという女性も多くなってくる。
反対に子どもが欲しくてもできない世帯も増えている、経済的な理由もさることながら、今まで女性側の原因とされてきた不妊は、実は男性側にも問題があることが分かってきた。
一時期ドラマにもなった「成田離婚」は、海外での新婚旅行から帰ってきて成田国際空港へ降りたった途端離婚を言い渡される男性が多いことから名付けられた。
以前は結婚といっても見合いが多く結婚するまで清く正しくということが尊ばれた時代、けれども婚前交渉もある程度は必要だと考える今、新婚旅行を終えてから二人の生活を考えるときの夫婦のギャップが早々に芽生えてくる。大役をやり終えたという憔悴した夫と、これから子供を産み育てていかねばと考える妻の考えとのはざまに大きな溝ができてくる。
このままでいいのだろうか。確かに戦後の復興目覚ましく急成長したけれども、それは日本人として適切な成長になっているのだろうか。
現代のように物質的な豊かさが飽和し始め、経済が成熟期ないし安定期に入ってくると、これまでとは大きく異なって、長期的な将来を予測することが可能となり、また必要になってくる。つまり、これまで以上に「長期的な生活設計」というものをすることが可能な時代に、現代の日本はなりつつあるのであり、逆にいえば、そうした生活設計を立てることの「必要性」もまた大きくなっているのである。(広井良典『日本の社会保障』岩波新書)
こうした時代の移り変わりを考えるようになったのは息子が大学2年になるときに言った言葉がきっかけである。「就職するまで年金の支払いは待ってもらおうかな」。私が息子と同じ年代のころはもう仕事に従事していたので有無をいわさず、社会保険、雇用保険そして厚生年金は三点セットで給料から天引きされていたので、気にすることなどまったくなく、また学生身分の同級生はそんなことより自分の楽しみのために使おうと考えているのが大部分だった。
今ではどこへ行っても飲食店が建ち並び食べたいものが食べられる、着たい洋服もお金を出せば買える、電車や飛行機に乗れば外国へも旅行できる、小さいころからそうやって育ってきた子どもたちには当たり前の生活である、それを大人になっても維持しようとする安定さを求めるようになる。安定を求めるということは、言い換えればさまざまなリスクに対応する備えをすることにほかならないからである。
生活設計を考える上で個人としての備えも大切であるけれども、公的機関が対応すべきこともある。この後者に当たるもの社会保障である。社会保障は大きく分けると4つある。所得保障、医療保障、公衆衛生そして社会福祉である。
第2次世界大戦後に制定された社会福祉という概念は主に経済的に困窮している者を救済する意味合いが強かったものが、例えばよりおいしいものを食べたいという欲求や静かで落ち着いた家に住みたい、人の上に立ちたいなど積極的な欲求の目的を達成するため、あるいは欠けたところを補完する教育やサービスを与える事業へと変化していった。
以前、私はボランティアとして目の見えない人のために病院へ診察に行くときなどの付添いをしていた。それを聞いた知人は「私は、そんなたいそうな心を持っていない。ボランティアをする人を尊敬するよ」と、言った。確かに日本人は奥ゆかしいので「私が付き添います」と、こちらから言いだせる人は少ないかもしれない、悪くすれば親切の押し売りと取られかねない。
しかし、そういった知人は、私に比べるともっと心根の優しい人である。一緒に編み物教室に通っていて、作業の遅い人をいつも気にかけてくれる。「この先はどうやって編むの?」、自分が編み物をしていてもいやな顔一つせず教えてくれる。いつもはマシンガンのようにおしゃべりな彼女がこのときばかりはポエムでも読むがごとく、ゆっくり丁寧にはっきりと明確に順序よく教えてくれるのである。
そんな彼女によくいったものである。「あなただってしっかり私にボランティアをしてくれてるじゃない。この前も落としたハンカチを拾ってくれたでしょう。『落ちましたよ』と拾ってくれる、それこそがボランティアなんだから」、そういうと怪訝そうな顔をして私を見詰めるけれども、ほんとうなのだ。何もご大層なことをしているわけではない。私の空いている時間と誰かに付き添って欲しいという人の時間が合致したとき、初めて成り立つものである。
どこの市長だか失念したが、以前「ボランティアというのは『志願兵』という意味なんですよ」と教えてくれた。そのときはたいそうびっくりしたが、私にとってはなるほどというところもある。
誰から強制されているものではない、自らの意思で現地に赴き目の見えない人やお年寄り、知的障害や身体障害の子どもと触れ合い、共に笑い悩んだりすることはほんとうに喜びなのである。それはこんな私でも誰かの役に立っているという喜びがそうさせるのではないだろうか。
したがってそれは、これからの日本人が社会福祉に向かっていくための適切な成長だといえると思う。
廻向発願心と申すは、
これ別のこころにては候わず、
わが所修の行を一向に廻向して、
往生をねごうこころなり。
大胡の太郎実秀へつかわした返事のなかにある言葉で
廻向発願(えこうほつがん)と読むそうです。
意味は、みずから積んだ功徳(くどく)を、
ほかの人間や、動物、自然などに振り替えることで、
御浄土に生またいと願う心を起こすことです。
この言葉は「観無量寿経」の中にある
「三心を具する者は必ずかの国に生ず」からきています。
三心とは
至誠心、深心、廻向発願心の三つを指していて
この心を持ち続けることが
御浄土に生まれることにつながるという意味です。
参考URL:
http://www.yojijukugo.net/yojijukugo/%E5%BB%BB%E5%90%91%E7%99%BA%E9%A1%98.html
http://www.jodo.or.jp/onki800/message/indexTop.html
これ別のこころにては候わず、
わが所修の行を一向に廻向して、
往生をねごうこころなり。
大胡の太郎実秀へつかわした返事のなかにある言葉で
廻向発願(えこうほつがん)と読むそうです。
意味は、みずから積んだ功徳(くどく)を、
ほかの人間や、動物、自然などに振り替えることで、
御浄土に生またいと願う心を起こすことです。
この言葉は「観無量寿経」の中にある
「三心を具する者は必ずかの国に生ず」からきています。
三心とは
至誠心、深心、廻向発願心の三つを指していて
この心を持ち続けることが
御浄土に生まれることにつながるという意味です。
参考URL:
http://www.yojijukugo.net/yojijukugo/%E5%BB%BB%E5%90%91%E7%99%BA%E9%A1%98.html
http://www.jodo.or.jp/onki800/message/indexTop.html
第4章「限定と無限-プラトン哲学における存在と生成-」
ギリシアの哲学者たち論争・対立に「ある」や「ない」という、世界把握の基本的な考え方が形を定める要素となるプラトンの目から見てゆく。
「同じ川へは二度と入れない」といったヘラクレイトスは、世界のあらゆる事物の生成、変化、消滅、そのような変化を引き起こすものは「火」だと考えていた。
「秩序はすべてのものにとって同一であり、神がつくったものでも人間がつくったものでもない。つねにあったし、あり、また、あるであろう、つねに生き続ける火として。ふさわしい分だけ燃え、ふさわしい分だけ消える。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
絶えず燃えさかり揺らめく火を見て、彼がどう考え、その根拠はなにか、そして、どのように考えてゆくとそうなるのかを導き出している。
万物は流転する、万物が火へ還る、そして火から万物となる。川は「同じ川」という意味では変化しないが、絶えず流れる川の水という意味では変化している。このように考えると「同じ川へは二度と入れない」というのは不十分なあるいは間違った言い方ではないだろうかと、ヘラクレイトスの弟子を自任するクラチュロスは考えた。
絶えず燃えさかり揺らめく火はとどまったかと思うとまた変化する、すべてが絶えず失われていくとしたら、何も時間・空間やはんちゅう的諸関係に規定されて現れていることがかなわないので、なにも流動しないのと等しくなる。
流動するものとしないものの区別がなくなってしまうので、クラチュロスはその現象を表すために、指の先を動かすだけになってしまった。
プラトンは言葉がなくなれば、なにも伝える術もなくなると考えて、言葉による生成変化が成り立つ方法を模索する。
「つまり、言葉の意味というものは、目に見えて手で触れるこの現実世界には存在していない。意味というのは、別の世界に存在しているものなんだ。」「その言葉はその言葉以外のことを意味しない。その言葉で思いうかべるあれこれは、人によって全部違うけれども、意味というのは、絶対に同じ共通のものなんだ」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
数についても同じである。同時代のピュタゴラスの同学派ピロラオスから受け継いだ「限定と無限」の対をもとに、プラトンは存在の根拠付けをおこなったのである。
「この世界にはまず、『より多い/より少ない』といった不定性を特質とする『無限』の部類がある。その無限を『等しさ』や『2倍』といった数や比率が『限定』し、そうして二者から『混合』されて生成した生存者が『およそ美なるすべてのもの』として形づくられている。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
数や言葉が物事の条理あるいは物事の正しい順序・筋道の世界を成立させているとプラトンは考えたのだ。
ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。
生(ある)、死(ない)について考えると、自分を生んだ母親、育ててくれた父親を思い出す。しかし、そのことが不愉快に感じられる、私はなぜ存在しているのだろうか。
たしかに、生まれた私に食べるものを与え、風邪をひかないように衣服を着せ、雨露をしのげる家に住まわせてくれた。
しかし、どうしても敬い慕うことができないのだ。なぜなら、3年前に亡くなった母を思い出しても、5年前に亡くなった父を思い出してもあのころは楽しかったとか、一緒に旅行へ行くことができてうれしかったとか思い出すものがないからだ。
物心ついたころ母が働いていたので保育園に預けられていた。保母が言った「あんたは嫌いなんだ。どうしても好きになれない」ある日、トイレに入っていると同じ組の子どもが急にドアを開けた。ドアを開けた女子は、私が用を足しているのを見て笑っていた。ほかの子どももあとからあとから来て、しまいには保母まで来た。が、その女子を責めることなく、同じように笑っていた。
小学校に上がっても同じように先生も、まわりの児童も意地悪だった。ささいな失敗をするといつも突き上げられた。ほかの子どもが同じような失敗をしてもそこまで言われている子どもは見たことがなかった。
そのような幼少期を過ごし大人になり結婚してから、母方の伯母が亡くなったので、告別式に出席したとき、親せきから「お前の母は、耳の聞こえない母親のために水商売をして生活費を稼いでいたのだ」と教えられた。
話を聞いてみると、母の母、つまり私からみて、母方の祖母は茨城の地主の娘であった。その娘は生まれたころ育てられた乳母が沐浴をしているとき耳に水が入ってしまったのに気がつかず何カ月も放置されたことで、両耳が聞こえなかったので、普通の子どもと同じように学校へも行けず、ほとんどうちの中だけで過ごした。
二十歳まで生きられるかどうかといわれたが、元来丈夫な体質なのか大病もせず大人になったので、婿を取って満州で暮らしたこともあったが、戦争が終わって日本へ戻ってきてから子どもを8人もうけた。その子どもの多さに祖母の兄弟は次第に疎んじ始めた。
いくら地主とはいえ敗戦直後の食糧が乏しいときに食いぶちが10人増えるのは大変なことだ。母親が働けない代わりに子どもたちに日ごろの鬱憤を晴らす叔父。
まだ幼い年ごろの母も例外ではない、田んぼの世話をするため、朝から晩まで働きどうし、土砂降りの雨の日には一人で田んぼに出て、仕事が終わるまで解放されなかった。
幼かった母も年ごろになってくると今度は母の生活費を稼いでこいと銘じられ、8人兄弟姉妹の中で年下の3人の娘たちが強制的に、東京で女給の仕事をさせられるも、早々に結婚してしまった母の住んでいる地元へ来て、叔父はいやがらせをするようになった。
そしてこともあろうか、母が身売りをしていたと吹聴して回っただけではなく、上の姉や兄も同じように意地悪をするように仕向けた。家のまで大声で怒鳴る、お酒を飲んで通行人に絡むなど近所迷惑な行動に思い余って、父と取っ組み合いになったこともあった。
私が幼いころ正月になると新年会と称してごちそうを食べに行くのだが、そのときいつもけんかをして帰ってきた父がとてもいやだったけれども、父なりに自分の妻をかばってのことだったと、今では感じられるようになった。私はより善いものを目指すために学びたいと願っている。「言葉は私のうちにもあるが、外にもある不思議な存在である」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
したがってロゴスの刺激に対して体の位置または姿勢を能動的に定めていき、言葉を大いに尊重しながら事象を模索することが大切なのだと考える。
ギリシアの哲学者たち論争・対立に「ある」や「ない」という、世界把握の基本的な考え方が形を定める要素となるプラトンの目から見てゆく。
「同じ川へは二度と入れない」といったヘラクレイトスは、世界のあらゆる事物の生成、変化、消滅、そのような変化を引き起こすものは「火」だと考えていた。
「秩序はすべてのものにとって同一であり、神がつくったものでも人間がつくったものでもない。つねにあったし、あり、また、あるであろう、つねに生き続ける火として。ふさわしい分だけ燃え、ふさわしい分だけ消える。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
絶えず燃えさかり揺らめく火を見て、彼がどう考え、その根拠はなにか、そして、どのように考えてゆくとそうなるのかを導き出している。
万物は流転する、万物が火へ還る、そして火から万物となる。川は「同じ川」という意味では変化しないが、絶えず流れる川の水という意味では変化している。このように考えると「同じ川へは二度と入れない」というのは不十分なあるいは間違った言い方ではないだろうかと、ヘラクレイトスの弟子を自任するクラチュロスは考えた。
絶えず燃えさかり揺らめく火はとどまったかと思うとまた変化する、すべてが絶えず失われていくとしたら、何も時間・空間やはんちゅう的諸関係に規定されて現れていることがかなわないので、なにも流動しないのと等しくなる。
流動するものとしないものの区別がなくなってしまうので、クラチュロスはその現象を表すために、指の先を動かすだけになってしまった。
プラトンは言葉がなくなれば、なにも伝える術もなくなると考えて、言葉による生成変化が成り立つ方法を模索する。
「つまり、言葉の意味というものは、目に見えて手で触れるこの現実世界には存在していない。意味というのは、別の世界に存在しているものなんだ。」「その言葉はその言葉以外のことを意味しない。その言葉で思いうかべるあれこれは、人によって全部違うけれども、意味というのは、絶対に同じ共通のものなんだ」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
数についても同じである。同時代のピュタゴラスの同学派ピロラオスから受け継いだ「限定と無限」の対をもとに、プラトンは存在の根拠付けをおこなったのである。
「この世界にはまず、『より多い/より少ない』といった不定性を特質とする『無限』の部類がある。その無限を『等しさ』や『2倍』といった数や比率が『限定』し、そうして二者から『混合』されて生成した生存者が『およそ美なるすべてのもの』として形づくられている。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
数や言葉が物事の条理あるいは物事の正しい順序・筋道の世界を成立させているとプラトンは考えたのだ。
ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。
生(ある)、死(ない)について考えると、自分を生んだ母親、育ててくれた父親を思い出す。しかし、そのことが不愉快に感じられる、私はなぜ存在しているのだろうか。
たしかに、生まれた私に食べるものを与え、風邪をひかないように衣服を着せ、雨露をしのげる家に住まわせてくれた。
しかし、どうしても敬い慕うことができないのだ。なぜなら、3年前に亡くなった母を思い出しても、5年前に亡くなった父を思い出してもあのころは楽しかったとか、一緒に旅行へ行くことができてうれしかったとか思い出すものがないからだ。
物心ついたころ母が働いていたので保育園に預けられていた。保母が言った「あんたは嫌いなんだ。どうしても好きになれない」ある日、トイレに入っていると同じ組の子どもが急にドアを開けた。ドアを開けた女子は、私が用を足しているのを見て笑っていた。ほかの子どももあとからあとから来て、しまいには保母まで来た。が、その女子を責めることなく、同じように笑っていた。
小学校に上がっても同じように先生も、まわりの児童も意地悪だった。ささいな失敗をするといつも突き上げられた。ほかの子どもが同じような失敗をしてもそこまで言われている子どもは見たことがなかった。
そのような幼少期を過ごし大人になり結婚してから、母方の伯母が亡くなったので、告別式に出席したとき、親せきから「お前の母は、耳の聞こえない母親のために水商売をして生活費を稼いでいたのだ」と教えられた。
話を聞いてみると、母の母、つまり私からみて、母方の祖母は茨城の地主の娘であった。その娘は生まれたころ育てられた乳母が沐浴をしているとき耳に水が入ってしまったのに気がつかず何カ月も放置されたことで、両耳が聞こえなかったので、普通の子どもと同じように学校へも行けず、ほとんどうちの中だけで過ごした。
二十歳まで生きられるかどうかといわれたが、元来丈夫な体質なのか大病もせず大人になったので、婿を取って満州で暮らしたこともあったが、戦争が終わって日本へ戻ってきてから子どもを8人もうけた。その子どもの多さに祖母の兄弟は次第に疎んじ始めた。
いくら地主とはいえ敗戦直後の食糧が乏しいときに食いぶちが10人増えるのは大変なことだ。母親が働けない代わりに子どもたちに日ごろの鬱憤を晴らす叔父。
まだ幼い年ごろの母も例外ではない、田んぼの世話をするため、朝から晩まで働きどうし、土砂降りの雨の日には一人で田んぼに出て、仕事が終わるまで解放されなかった。
幼かった母も年ごろになってくると今度は母の生活費を稼いでこいと銘じられ、8人兄弟姉妹の中で年下の3人の娘たちが強制的に、東京で女給の仕事をさせられるも、早々に結婚してしまった母の住んでいる地元へ来て、叔父はいやがらせをするようになった。
そしてこともあろうか、母が身売りをしていたと吹聴して回っただけではなく、上の姉や兄も同じように意地悪をするように仕向けた。家のまで大声で怒鳴る、お酒を飲んで通行人に絡むなど近所迷惑な行動に思い余って、父と取っ組み合いになったこともあった。
私が幼いころ正月になると新年会と称してごちそうを食べに行くのだが、そのときいつもけんかをして帰ってきた父がとてもいやだったけれども、父なりに自分の妻をかばってのことだったと、今では感じられるようになった。私はより善いものを目指すために学びたいと願っている。「言葉は私のうちにもあるが、外にもある不思議な存在である」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
したがってロゴスの刺激に対して体の位置または姿勢を能動的に定めていき、言葉を大いに尊重しながら事象を模索することが大切なのだと考える。
8月に提出した心理学のレポートが
採点されて返ってきました。
うっはぁ、開けたくなーい。
でも日曜日には科目最終試験があるので、
見ておかなければいけないし……。
うーん。
思い切ってホチキスで止まっている封を解く。
どうだ、判定やいかに!?
ナ、ナント2つの設題の判定はCとB。
始めてB判定もらった~☆
「始めてのB判定おめでとう」と君が言ったから
10月7日はサラダ記念日♪
うれしいなったら うれしいな~♪
うひひ。<(半壊)
A判定をもらう日も近い(^▽^)
採点されて返ってきました。
うっはぁ、開けたくなーい。
でも日曜日には科目最終試験があるので、
見ておかなければいけないし……。
うーん。
思い切ってホチキスで止まっている封を解く。
どうだ、判定やいかに!?
ナ、ナント2つの設題の判定はCとB。
始めてB判定もらった~☆
「始めてのB判定おめでとう」と君が言ったから
10月7日はサラダ記念日♪
うれしいなったら うれしいな~♪
うひひ。<(半壊)
A判定をもらう日も近い(^▽^)