言葉の語源
日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。
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メッセージ.jpという番組に狂言師の野村万作さんがでるというので見ました。
万作さんより野村萬斎というほうが聞いたことのある人は多いかもしれません。映画『陰陽師』の主演をした狂言師です。
万作さんはそのお父さん、人間国宝に選ばれた優秀な狂言師です。
狂言といってもあまりご存じのない方が多いと思います、私もその一人ですが、さまざまな日本芸能のうち江戸時代のころ能は式楽にもちいられていたこともあり、時代が変わって明治になっても上流社会の人が謡や舞を習いパトロンも付いていました。
かたや狂言はきらびやかでも荘重でもなく、勧善懲悪でもなく、ただの人間が登場するとあって、親しみやすいけれども地位が高いとは言えなかったのです。
そんななか万作さんは
狂言を演劇として認めてもらいたい、
こんな思いから新しい事へ挑戦していきます。演出家武智鉄二がオーストリアの作曲家シェーンベルクの曲に踊りを付けた『月に憑かれたピエロ(1955年)』白いタイツをはいて前衛的な仮面まるでバレエのような姿。堅苦しい狂言の先輩方は眉を顰めるものも多かったけれども、逆に応援してくれる方も増えてきたそうです。
狂言で一番始めに習うのは猿の演技、そして卒業論文的な演目は狐。どちらも動物です。狂言の演技では動物は人間とまったく違う動きをします。それを一つの演目の中でやらねばならない、気力、体力、技術どれをとっても欠かせないものだからこその演目が選ばれたのでしょう。
人間国宝に選ばれた万作さんとはいえ、始めは演技をお父さんに口伝えで教わっています。どんなふうな姿なのか、どうしゃべるのか、一つ一つ面と向かって言葉で伝えます、教科書なんてありません。
こんな顔をしてこういうふうにしゃべる、そしてこういうしぐさをする、そういうことを逐一体で覚えていくのです。それが基本なんですね。万作さんも始めは練習がいやでいやでしかたがなかったそうです。物心ついたころ自分のうちはよそと違うということに気がついて友達と同じように遊びたい、友達と野球をしたい、そんな思いがあったそうです。
けれども大学生になり能を習ったり前衛演劇をしていくうちに、狂言を演劇として認めてもらいたいと考えるようになってきました。海外公演の成功、コマーシャルの効果もあり、だんだんと狂言も世間に認知されるようになってきました。
そんな万作さんだからこそ個性というよりは基本をしっかりやらなければならないといいます。
ものを教わるのだから自分勝手にやっては教わることができない、ある程度の我慢をするということが「抑制」となります。型を教わったら型どおりにやる、それが抑制です。そして抑制があって初めて個性がでてきます。
「始めから自分流のものばかりやっていてはいいものができない。基本というのがあってそれを身に付けて、その上に創造、個性というものが生まれる」万作さんの言葉です。
基本というものがあって初めて見るものへ感動を与えることができる。だからこそ評価がうまれるのだなと思いました。
篆刻のお店ではんこを作ってもらっていました。
「誠」という文字は言葉が成ると書く、
正確な言葉を生業にする人らしい名前です、
「光」は周りの人を照らす、
自分が光っているから周りの人も明るくなるそうです。
漢字の成り立ちって面白いなあ。
⇒読む能力からみた遠隔学習の特徴は無言の学びだということだ。テキストや参考書、機関紙などに口は付いていないので何もしゃべらないし、語りかけても返ってくることはない。ただ文字面だけを追っているとほかのことに思考が向いてしまう。集中力がなければ正確に読み取ることはできない。
そして書く能力からみた遠隔学習の特徴は書くということだ。学習以外にも遠隔学習には書くことが多い、レポートのほかにも試験や卒業論文、質問票や事務手続き、テキストを購入するときなどさまざまな場面で書くことを要求される。
ところが読む能力からみた対面学習の特徴は言葉による学びだ。教師によるあいさつに始まってチョークで板書するときにも絶えず言葉が聞こえるのでその内容を読み解かねばならない。
そして書く能力からみた対面学習の特徴は講義を受けながらノートを書くことだ。スクーリングや大学の講義、人材育成セミナーや座談会、耳から入ってくる教師の言葉を聞きながら手にはペンを握って文字をノートに書き起こす。ただ教師の言葉を書き写すだけではなく、何を言っているか、どのような事柄と関連するのかなど、聞いているのと同時に整理をしながら書き進めなければならない。
ノートをとらないで聞いているとしばしば相手の表情や態度に惑わされる。何げないしぐさや言い間違いなどに気を取られて肝心な話を聞き逃したりすることもある。
遠隔学習と対面学習の一番の違いである、しゃべりかけてくれないテキストとしゃべる教師だ。
これを使い学習をするために欠かせない能力に「読む能力」と「書く能力」がある。誰でしていることだと言えるかもしれないが、対面学習と違い、語る言葉を持たぬテキストを相手にするには、やはり意識的に学ばねばその能力は向上しない。
そのわけは大学レベルの研究書などは小説などと違い、読み手が自由に読んで解釈するものではなく、著者や読み手からいったん離れてその文章を正確に読解する必要がある<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P10。
また「読む能力」は文字だけではなく映画などの映像、仕事で使うテープ起こしの音声、情報の詰まったコンピューターなどから情報を読む能力が高くなければ正確に理解することができない。
正確に理解したということを証明するためにはどうしたらいいのだろうか。理解した事柄を他人にも分かるように明示せねばならない。そのため「書く能力」も必要になり、書くために参考文献などを集めてくる、これで準備が整ったかといえばそうではない。参考文献のどこに、いまから書こうとしているレポートの資料として使えるものがあるか点検せねばならない。運よく数行読んだだけで出てくるときもあれば1冊丸々読んだあと奥付にやっと出てくるかもしれない。あるいはその本には書かれてないかもしれない、検索力も書くためには欠かせない能力の一つなのだ。
そうやって資料を集めていると、もっといいもの、もっと新しいあるいは別の視点で書かれているものはないかと探すことに夢中になり一向にレポートが進まない。
ここに一つの「誤解」がある。それは、レポート・論文にしろ何にしろ書くという作業を頭の作業だと思っている「誤解」である。人間は頭だけで考えるのではない。手との共同で考えるのである。紙の上やディスプレーとの共同で考えるのである。<小笠原喜康、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文術、講談社現代新書、P166。
このように遠隔学習では「静」であった学習が対面学習では「動」になるといえる。
(2)次に、インターネットやDVDなどのデジタル化したメディアを活用した学習は、書籍・雑誌など従来のメディアによる学習とどう異なるのか、「問う」という関心から考察しなさい。学習経験に照らして自分の意見を述べなさい。
⇒学ぶためには読む、書くのほかに考えることが必要、それは考えることがなぜ、どうして、という疑問から出発しているからだ。冷静になるとか精神統一をすればいいとかいえばそうではない。
確かに有効な手段ではあるかもしれなけれども、それを行うことによって考える能力が上がるわけではない。
例えば解決したいなぞがある、その謎を解き明かすにはどうしたらいいのだろうか、と「問う」のである。
問うとは問題を自覚し発見しその解決を意識的に求めること。問うためには与えられた問題を解決するための問題解決能力とは別の能力、問題発見能力が必要であるといえる。この能力を養うことが学ぶことにおいて重要である。<『基礎教育I-VK』佛教大学通信教育部 第13回 問う1 なぜ「問う」なのか。
「問う能力」「読む能力」「書く能力」という、この3つの能力は、互いに影響し合って向上する能力なのである。
与えられた情報を読んで、ふと疑問がわいてくる、どうしてなんだろう、もしかしたらそうではないのかもしれない、情報を聞いたとき、根拠を問うことはとても大切だ。どのような主張なり意見なりにも、知的思考に基づいたものならば必ず理由あるいは言動のよりどころとなるものがある。
またその根拠が正しいものなのか問うことも重要だ。あいまいなままにせず白日の下にさらすことで、その根拠が正確なものだといえるのだ。
「聖人や賢人といわれる人人の本を読む場合には、彼等の言うことをむやみに有り難がるのではなくのではなく、批判的に読むことが大切である。そうでないと真理は分からないし、聖賢の書を読むことは、役に立つどころかかえって害になる<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P112」
批判的というのは少々過激かもしれないけれども、どんな偉い人のいうことでも鵜呑みにしない、自分できちんと調べてこそ、真理の力が発揮できるというものである。
批判的な問いには常識、あいまいさ、根拠、矛盾、経験、もし、異論を問うなど、与えられた情報を元にさまざまな問いを考えられる。
問いを考えたら答を探すために調べなければならない。もちろん先生に聞くこともスクーリングで出会った仲間に聞くのもいいことだけれども、まずは自分で調べることから始める。
手元にある国語辞典や漢和辞典あるいは古語辞典、英和辞典も役に立つであろう。さもなくば図書館へ出掛けてもいい。
問いを個条書きに書いたカードを何枚か作って並べる「問題map」は、順序立てて物事を見られるのでレポートや論文の全体が見えては把握しやすいだろう。
メディア時代の昨今ではパソコンを使ってDVDの百科事典やインターネットの検索エンジンなども調べるのに有効だ。
例えば参考文献として借りた「小笠原喜康著、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文編 講談社現代新書」を図書館で探しても全然見つからなかったけれども、インターネットで図書館内の所定の検索欄に文献名を入力するとすぐに出てくる。
ボタン一つで欲しい文献がどこの図書館にあるのか一目でわかる、時間の短縮もでき効率的だ。
yahoo!japanという検索エンジンでは理論演算というものがあり、調べたい単語が複数一致するもの、どちらか片方を検索するもの、または含まない語句を指定したり、優先順位を付けるなど演算子を付けることでかなり絞った検索ができるようになっている。
仕事でパソコンを使っているものにはごく自然なことだけれども、図書館で日本十進分類法に沿って探し物をしながら本棚をめぐりながら偶然、目にとまった本を読むのもひそかな楽しみである。
それは現在の「問う」ことに関連のないことでも、未来の「問い」には絶対役に立つものである。
NHKで「とことん石丿森章太郎」特集を放送していたので
ついなつかしくて、気がついたら一週間も見続けてしまいました。
タイトルは007の間違いじゃありません(笑)
日本の漫画家である石丿森章太郎さんの代表作です。
バッタの顔した仮面ライダーや体半分色違いのキカイダーなんて、
ゲゲゲの鬼太郎ばりの恐さがあって
純情かれんな私には正視できなかったのを覚えています。
いやほんと、ウン10年前はそうだったんですよ。
だれ? そんなふうには絶対見えない!って言ってるのはw。
改めてテレビシリーズを見て驚いたのは、
原作「サイボーグ009」の主人公9番目のサイボーグ戦士009は
誤って少年院に入れられた男の子だったんですね。
レーサーじゃなかったんだ~。
時代劇もので青年誌に連載されていた
「佐武と市捕物控」
「八百八町表裏 化粧師」は案外面白かったです。
左武と市は実写の時代劇を撮る監督さんが監修しているので、
江戸時代のドラマをアニメーションにしたらこんな動きをするんだろうな
というカットやストーリー展開がチャンバラの好きな人にはたまんない。
2001年に上映された椎名桔平主演映画「化粧師」の
原作が見られるとは思いませんでしたというか原作あったんだ(笑)
桔平さんの化粧師もかっこよかったけど
アニメーションも豪快なところがステキだった、
BSで再放送してくれないかなぁ~w
1985年5月8日、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の演説
『荒れ野の40年』の一節。
過去の事実に目を背け正当な評価を避け無視する者は現在の事態にも目を背けることになるという意味でしょう。
過去の出来事の解明は現在の理解のためにある。歴史を学ぶ者も自戒としたい言葉です。
若い頃は、何ごとにつけ失敗するのが嫌で、失敗した後には深い失望を感じて立ち直りが遅かった。そのせいか、新たなトライに億劫になりがちでしたが、歳を取ってからは「失敗したからと言って、人生が終る訳ではない」と思えるようになり楽になりました。
愛の反対は憎しみではない。
憎しみは愛に変わるが、
無関心は絶対愛に変わらないからである。
今は亡きマザー・テレサさんがおっしゃっていました。
うんうんとうなずいてしまう言葉です。
かわいさ余って憎さ百倍といいますけれども、
無関心は関心に変わってから愛になるかまた無関心になるか、
とにかくそのままでは変化がないので、愛に変わりようがないです。
自分の気持ちを切り替えるのも難しいのだから
人の気持ちを変えさせるのはさらに大変。
どんなことにでも興味を持って聞いたり見たりすることが、
いつまでも関心を持っていられる秘訣かもしれません。
年をとると赤子に戻るといいますがマザー・テレサさんは
死ぬまで成長していたように感じます。
私もそんなふうに生きていきたいと思いました。
ほかにもステキな言葉を見つけたのでご紹介します。
http://www.nsknet.or.jp/~kmg/teresa03.htm
何げなく店内を見渡していたら……。
見つけちゃいました。
チョコフォンデュセット☆
以前から食べてみたかったんです。
チーズフォンデュやオイルフォンデュ、
中でもとろっととろけるチョコフォンデュ
やっぱり食べるからにはお鍋とかそろえたい。
テーブルの上で火を使うのでスタンドも必要です。
ほかにも具材を刺すためのフォークとか
一式そろえるとなると結構なお値段ですよね。
でも半額でgetしちゃったんです☆

むふふ♪
小さなお鍋と載せるスタンド、ローソク3コと
テーブルが熱くならないようにベースが入っています。
フォンデュの具材を刺すフォークも付いているんですよ。
フランスパンや果物、マシュマロを一口大に切って、
このフォークを使ってお鍋にとろけたチョコにくぐらせて食べる。
あ~考えたただけでも、よだれが……。
来週は友達を招いてホームパーティーをしよう!
「黄昏」
今では一語として使っている言葉でも、昔は二語以上の言葉からできていて、それが熟語となったことで意味が変わることがあります。「黄昏(たそがれ)」という言葉は今では一語の言葉として使われていますが、もともとは「誰そ彼」という二語以上からなる語です。
夕方になると「誰が彼」と人の姿が見わけにくいためにダレソレというようになりました。明け方を「彼誰(かわたれ)」というのも誰が彼の語源構成に由来しています。
夜明けに薄暗くて誰彼の判別が付きにくい状況を反映した言葉です。夕暮れを名古屋地区で「うそうそ」といったのも人の顔のはっきりしない不分明なさまを形容したものです。 <参考文献>漢字の謎講座広告から
「者」
旧字では「日」は薪の入っている容器であり、文字の上半分の「土」と「ノ」は薪や火の粉を表しています。
つまり者とは、薪を一カ所に集めて燃やすことから人や物が集まるという意味になった文字なのです。それにこざと偏がついて「都」になったのです。
ほかの例を見てみましょう。
煮沸の「煮」は下に4つの点の「れっか」が上にあるものを炎を集めて加熱するという意味であり残暑の「暑」は太陽を表す「日」が集中してあたり暑くなるという意味です。
一見わかりにくい文字に「書」という文字にも者が含まれています。筆のくさかんむりの下の文字は者から成り、墨を筆先の一カ所に集めて紙にとどめることから、筆で期す意味になりました。
話を元に戻しますと、
者が、人が集まるという意味からやがては、
医者や役者のように人物の特性を表す用い方がでてきたようです。