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言葉の語源

日常、耳にする言葉の意味を調べています。 日本語って知れば知るほど魅力のある言葉ですね。

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 「そうだ。その通り!」という言葉が飛んできたのは、視覚障害者の付添いのための講習会の場である社会福祉協議会の2階の会議室には、十数人の講習生と7~8名ほどの目の不自由な方々、そして医師や看護婦の方がいた。
 今まで目が見えていたけれども、事故にあったり病気になったり、急に視力が衰えてくる病気にかかり光を失ってしまう人がいる。それだけではなく生きる意欲もなくしてしまう、何とか外へ出るように何でもいいから人と話ができるような機会を持てないだろうか、と考えた医者や看護婦が集まって目の不自由な人に声をかけたのであった。
 一人で出掛けるのが不安だったら誰かに頼もう、二人だったら安心できる。しかし毎回、違う人では不安が消えないので、できればパートナーを決めてほしいということで今回の催しが決定した。
 素人でもいい、熟練したボランティアでなくてもいい、相手に寄り添ってくれる人ならそれでいいという気持ちが強かったと看護婦は話す。
 私は専門的な知識は何も知らないので、少しでも勉強できるのならば教えてもらいたいという思いで講習会に臨んだ。
 始めは小雨の降る中で六義園へお散歩、目の不自由な50代前半ぐらいの女性とのペアであった。「初めまして」の次に出た言葉は「私、怖いんです」であった。
 「ここも初めてだし、こんなに遠くへ出てきたのも初めて。だからとても怖いんです」そこで初めて気がついた。そうか見えないということは怖いのだ。
 よく聞くと薄ぼんやりと明かりだけは見えるけれども、何がどこにあるかは皆目見当がつかない、けれども中途で視力を失ったから木や草花や公園などを見たことがないわけではない。私はせめて少しでも頭の中にイメージできるようにと回りの風景を説明した。こちらには池があって向こうにあるのは千鳥橋。池の川面に枝垂れるように青々とした葉っぱを付けた大ぶりの枝が何本も見えこと。
 庭園には小石が引き詰めてあるので歩くとジャリと音がする。そういうものも怖がっていたので帰り道も「ここは小石が引き詰めてあるんですよ。あと5メートルぐらい歩くとアスファルトになっています」。「ちょっと水たまりがあるので右に反れましょうか」などなどと、一歩一歩と歩くたびに状況説明をしながら進んでいった。
 歩道の右側には自転車や個人宅のものであろう植木鉢も並べてあるので、狭い道幅がもっと狭くなる。「右側には自転車や植木鉢が並んでいるから、もっとこっちに寄ったようがいいですよ。どうしてこんなに並べておくのかしらね。道幅が半分になっちゃう」。
 すると少し女性がくすくすと笑いだした。「そんなことまで言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。どうしてそんなことを言うんですか」と、尋ねるので「さっき、分からないから怖いと言っていたから。でも分かったからといって、その怖さが消えるわけではないけれども、少しは安心できるんじゃないかと思って」と、いうと女性は「あなたが一緒にいてくれてよかった」と言った。
 それから地下鉄に乗って社会福祉協議会の会議室まで帰る。いつもなら下り階段は絶対、降りられないというので「もし、階段を踏み外して転げ落ちちゃったら私も一緒ですよ。代わりにけがをしてあげることはできないけれども、この手を握ったときから私も一緒に落っこちることになっているんですから」と言うと、また笑い出して見事に階段を下りることができたのだ。
 私は心の中で、案外思ったよりも簡単だったじゃないか。こういう感じで相手をリラックスさせていけば、最後までうまく誘導して連れて行けるのではないかと思いながら、その後も回りの状況を事細かく女性に伝えながら歩いていった。
 社会福祉協議会に着くころは小雨もやんで、明るくなってきた。このあとも同じような感じでいくのかと思っていたら、机をUの字に並べてある会議室に通された。
 席に着くと、看護婦が今までの労をねぎらう言葉を言った。私はちょっと得意になった、何も知らない素人だったけれども、これぐらいできるんだよと。
 端から順番に今日の感想を言い合った、あいにくの天気だったけれども、外へ行くことができてよかった。一人じゃないのがとても安心できた、などなどの言葉を聞くとお手伝いができてよかったなと安心した。
 これから座談会のように和気あいあいと意見交換して終わりなのかと思っていたら、数枚の紙をホチキスでとめた書類の束を渡された。
 そこには目の見えなくなった理由や、見えなくなったときの状況などが書かれていた。子どものころは普通に見えていたこと、おとなになって結婚して事故にあって見えなくなったこと、あるいは病気で視力が衰えてきて明るさしか見えなくなってしまったこと。しまいには自殺まで考えたこと。
 朝、布団の中で目が覚めて、まぶたを開ける。しかし薄ぼんやりした世界だけが見える。布団から起き上がっても何がどこにあるか分からない、布団さえどこにあるのか分からない。立ち上がろうとしてもどうやったらいいのか分からない、無理やり立ち上がろうとしても均整を失って倒れる。体が委縮して動けなくなる。
 そうなると今まで住んでいた家が自分のうちではないような感覚さえ出てくる。隣の部屋へ歩くだけでも怖くなる。目が見えるときに部屋に飾っていたお気に入りの人形を手で引っかけて落としてしまう。それを知らないでつまずいて転んだときは、自分がほんとうに情けなかった。
 部屋から部屋へ移るときしゃべらず黙って歩くので、誰がいるのか分からない、家族まで怖くなる。この人はほんとうに家族なのだろうか。いっときは声を聞いて安心するが、その声もほんとうに夫のものなのだろうか、子どものものなのだろうか、恐怖におののき正常な判断ができなくなるのだ。
 そんな中で目の不自由な人が外出するということは、文字通り決死の覚悟だったのだろうと初めて知った。目をつぶれば、目の不自由な人と同じような体験ができるからと、目をつぶるように言われた。けれどもそんなことは健常者には決してできないのである。
 「だって目をつぶっていても、自分の意思で開けられるんですよ」そういったとき、冒頭の声が聞こえたのだ。「そうだ。その通り!」。体験談を読んで自分が何も分かってなかったことに気付かされた。確かに私がやっていた状況説明は悪いことではないだろう、しかしそれはそのときだけの気休めでしかない。なぜなら根本的なことは何も解決されてないからだ。表面上の笑顔が見えただけで私は満足していた。
 とはいえ根本的な解決といっても、ほか思い付くことは自分の膈膜をとってあげるぐらいのことだ。しかし、死なねばならないとなると躊躇してしまう。彼女のためにこれ以上何ができるというのだろうかと考えた場合、答えに詰まってしまった。したがって利用者の立場に立っての視点というものの答はでないけれども、佛教大学へ入学して社会福祉を学んでいくことによって理解が深くなることを望むものである。
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 かつてイギリスの元首相、チャーチルが言った言葉がある「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況が分かる」と。日本の高齢者の抱えている問題や、それへの社会福祉の状況から、私たちはこの言葉の持つ意味をしっかりと見極めることが肝要である。福祉は今や文化である。(福祉士養成講座編集委員会編『新版 介護福祉士養成講座1社会福祉概論』中央法規出版)戦後の昭和30年代半ばを境に日本の生活は大きく変わってきた。
 かつて家内工業だったものがそれだけでは生活が成り立たなくなり、若者は職を求めて都市へ移り住み、労働に見合った賃金報酬で暮らす、賃金生活者が増える。
 明日のお米の心配をしなくなり収入が安定する一方、その収入の範囲でしか生活が成り立たなくなってくる。子どもを多く欲しいと思っていても生み育てる生活費や、能力を伸ばすために教育費を拠出することが難しくなってきた。集団就職で都会へ出てきた若者はそのまま住み着き結婚する者も多く、子どもができても故郷へ戻る者はほんの一握りに過ぎない。
 田舎に取り残された両親は年月と共に年老いていく、あるいは配偶者を亡くし一人暮らしが多くなってくると世帯数は増加するが世帯人数は減少してくるという一人暮らしが多くなってくる。
 65歳以上の人口割合が7パーセントから14%に達するまでに要する年数は、フランスでは104年も掛かっているのに対して日本ではたったの24年、実に四分の一の短い年数で高齢化社会を迎えたのである。これは世界でも類を見ないスピードだ。
 また女性の社会進出も目覚ましい年代であるにもかかわらず、結婚すると企業から退職を迫られることもある、運よく結婚後も仕事に従事することができたとしても今度は、妊娠、出産、育児がのし掛かる。それに対して預かり施設の減少、小学校でのいじめなどのニュースを聞くとあえて出産の道を選ばなくてもいいのではないだろうかという女性も多くなってくる。
 反対に子どもが欲しくてもできない世帯も増えている、経済的な理由もさることながら、今まで女性側の原因とされてきた不妊は、実は男性側にも問題があることが分かってきた。
 一時期ドラマにもなった「成田離婚」は、海外での新婚旅行から帰ってきて成田国際空港へ降りたった途端離婚を言い渡される男性が多いことから名付けられた。
 以前は結婚といっても見合いが多く結婚するまで清く正しくということが尊ばれた時代、けれども婚前交渉もある程度は必要だと考える今、新婚旅行を終えてから二人の生活を考えるときの夫婦のギャップが早々に芽生えてくる。大役をやり終えたという憔悴した夫と、これから子供を産み育てていかねばと考える妻の考えとのはざまに大きな溝ができてくる。
 このままでいいのだろうか。確かに戦後の復興目覚ましく急成長したけれども、それは日本人として適切な成長になっているのだろうか。
 現代のように物質的な豊かさが飽和し始め、経済が成熟期ないし安定期に入ってくると、これまでとは大きく異なって、長期的な将来を予測することが可能となり、また必要になってくる。つまり、これまで以上に「長期的な生活設計」というものをすることが可能な時代に、現代の日本はなりつつあるのであり、逆にいえば、そうした生活設計を立てることの「必要性」もまた大きくなっているのである。(広井良典『日本の社会保障』岩波新書)
 こうした時代の移り変わりを考えるようになったのは息子が大学2年になるときに言った言葉がきっかけである。「就職するまで年金の支払いは待ってもらおうかな」。私が息子と同じ年代のころはもう仕事に従事していたので有無をいわさず、社会保険、雇用保険そして厚生年金は三点セットで給料から天引きされていたので、気にすることなどまったくなく、また学生身分の同級生はそんなことより自分の楽しみのために使おうと考えているのが大部分だった。
 今ではどこへ行っても飲食店が建ち並び食べたいものが食べられる、着たい洋服もお金を出せば買える、電車や飛行機に乗れば外国へも旅行できる、小さいころからそうやって育ってきた子どもたちには当たり前の生活である、それを大人になっても維持しようとする安定さを求めるようになる。安定を求めるということは、言い換えればさまざまなリスクに対応する備えをすることにほかならないからである。
 生活設計を考える上で個人としての備えも大切であるけれども、公的機関が対応すべきこともある。この後者に当たるもの社会保障である。社会保障は大きく分けると4つある。所得保障、医療保障、公衆衛生そして社会福祉である。
 第2次世界大戦後に制定された社会福祉という概念は主に経済的に困窮している者を救済する意味合いが強かったものが、例えばよりおいしいものを食べたいという欲求や静かで落ち着いた家に住みたい、人の上に立ちたいなど積極的な欲求の目的を達成するため、あるいは欠けたところを補完する教育やサービスを与える事業へと変化していった。
 以前、私はボランティアとして目の見えない人のために病院へ診察に行くときなどの付添いをしていた。それを聞いた知人は「私は、そんなたいそうな心を持っていない。ボランティアをする人を尊敬するよ」と、言った。確かに日本人は奥ゆかしいので「私が付き添います」と、こちらから言いだせる人は少ないかもしれない、悪くすれば親切の押し売りと取られかねない。
 しかし、そういった知人は、私に比べるともっと心根の優しい人である。一緒に編み物教室に通っていて、作業の遅い人をいつも気にかけてくれる。「この先はどうやって編むの?」、自分が編み物をしていてもいやな顔一つせず教えてくれる。いつもはマシンガンのようにおしゃべりな彼女がこのときばかりはポエムでも読むがごとく、ゆっくり丁寧にはっきりと明確に順序よく教えてくれるのである。
 そんな彼女によくいったものである。「あなただってしっかり私にボランティアをしてくれてるじゃない。この前も落としたハンカチを拾ってくれたでしょう。『落ちましたよ』と拾ってくれる、それこそがボランティアなんだから」、そういうと怪訝そうな顔をして私を見詰めるけれども、ほんとうなのだ。何もご大層なことをしているわけではない。私の空いている時間と誰かに付き添って欲しいという人の時間が合致したとき、初めて成り立つものである。
 どこの市長だか失念したが、以前「ボランティアというのは『志願兵』という意味なんですよ」と教えてくれた。そのときはたいそうびっくりしたが、私にとってはなるほどというところもある。
 誰から強制されているものではない、自らの意思で現地に赴き目の見えない人やお年寄り、知的障害や身体障害の子どもと触れ合い、共に笑い悩んだりすることはほんとうに喜びなのである。それはこんな私でも誰かの役に立っているという喜びがそうさせるのではないだろうか。
 したがってそれは、これからの日本人が社会福祉に向かっていくための適切な成長だといえると思う。
 第4章「限定と無限-プラトン哲学における存在と生成-」
 ギリシアの哲学者たち論争・対立に「ある」や「ない」という、世界把握の基本的な考え方が形を定める要素となるプラトンの目から見てゆく。
 「同じ川へは二度と入れない」といったヘラクレイトスは、世界のあらゆる事物の生成、変化、消滅、そのような変化を引き起こすものは「火」だと考えていた。
 「秩序はすべてのものにとって同一であり、神がつくったものでも人間がつくったものでもない。つねにあったし、あり、また、あるであろう、つねに生き続ける火として。ふさわしい分だけ燃え、ふさわしい分だけ消える。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
 絶えず燃えさかり揺らめく火を見て、彼がどう考え、その根拠はなにか、そして、どのように考えてゆくとそうなるのかを導き出している。
 万物は流転する、万物が火へ還る、そして火から万物となる。川は「同じ川」という意味では変化しないが、絶えず流れる川の水という意味では変化している。このように考えると「同じ川へは二度と入れない」というのは不十分なあるいは間違った言い方ではないだろうかと、ヘラクレイトスの弟子を自任するクラチュロスは考えた。
 絶えず燃えさかり揺らめく火はとどまったかと思うとまた変化する、すべてが絶えず失われていくとしたら、何も時間・空間やはんちゅう的諸関係に規定されて現れていることがかなわないので、なにも流動しないのと等しくなる。
 流動するものとしないものの区別がなくなってしまうので、クラチュロスはその現象を表すために、指の先を動かすだけになってしまった。
 プラトンは言葉がなくなれば、なにも伝える術もなくなると考えて、言葉による生成変化が成り立つ方法を模索する。
 「つまり、言葉の意味というものは、目に見えて手で触れるこの現実世界には存在していない。意味というのは、別の世界に存在しているものなんだ。」「その言葉はその言葉以外のことを意味しない。その言葉で思いうかべるあれこれは、人によって全部違うけれども、意味というのは、絶対に同じ共通のものなんだ」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
 数についても同じである。同時代のピュタゴラスの同学派ピロラオスから受け継いだ「限定と無限」の対をもとに、プラトンは存在の根拠付けをおこなったのである。
 「この世界にはまず、『より多い/より少ない』といった不定性を特質とする『無限』の部類がある。その無限を『等しさ』や『2倍』といった数や比率が『限定』し、そうして二者から『混合』されて生成した生存者が『およそ美なるすべてのもの』として形づくられている。」(田山令史・斎藤慶典・編著『連続を巡る哲学-流れ・瞬間・同一性-』佛教大学)
数や言葉が物事の条理あるいは物事の正しい順序・筋道の世界を成立させているとプラトンは考えたのだ。
 ここから自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述する。
 生(ある)、死(ない)について考えると、自分を生んだ母親、育ててくれた父親を思い出す。しかし、そのことが不愉快に感じられる、私はなぜ存在しているのだろうか。
 たしかに、生まれた私に食べるものを与え、風邪をひかないように衣服を着せ、雨露をしのげる家に住まわせてくれた。
 しかし、どうしても敬い慕うことができないのだ。なぜなら、3年前に亡くなった母を思い出しても、5年前に亡くなった父を思い出してもあのころは楽しかったとか、一緒に旅行へ行くことができてうれしかったとか思い出すものがないからだ。
 物心ついたころ母が働いていたので保育園に預けられていた。保母が言った「あんたは嫌いなんだ。どうしても好きになれない」ある日、トイレに入っていると同じ組の子どもが急にドアを開けた。ドアを開けた女子は、私が用を足しているのを見て笑っていた。ほかの子どももあとからあとから来て、しまいには保母まで来た。が、その女子を責めることなく、同じように笑っていた。
 小学校に上がっても同じように先生も、まわりの児童も意地悪だった。ささいな失敗をするといつも突き上げられた。ほかの子どもが同じような失敗をしてもそこまで言われている子どもは見たことがなかった。
 そのような幼少期を過ごし大人になり結婚してから、母方の伯母が亡くなったので、告別式に出席したとき、親せきから「お前の母は、耳の聞こえない母親のために水商売をして生活費を稼いでいたのだ」と教えられた。
 話を聞いてみると、母の母、つまり私からみて、母方の祖母は茨城の地主の娘であった。その娘は生まれたころ育てられた乳母が沐浴をしているとき耳に水が入ってしまったのに気がつかず何カ月も放置されたことで、両耳が聞こえなかったので、普通の子どもと同じように学校へも行けず、ほとんどうちの中だけで過ごした。
 二十歳まで生きられるかどうかといわれたが、元来丈夫な体質なのか大病もせず大人になったので、婿を取って満州で暮らしたこともあったが、戦争が終わって日本へ戻ってきてから子どもを8人もうけた。その子どもの多さに祖母の兄弟は次第に疎んじ始めた。
 いくら地主とはいえ敗戦直後の食糧が乏しいときに食いぶちが10人増えるのは大変なことだ。母親が働けない代わりに子どもたちに日ごろの鬱憤を晴らす叔父。
 まだ幼い年ごろの母も例外ではない、田んぼの世話をするため、朝から晩まで働きどうし、土砂降りの雨の日には一人で田んぼに出て、仕事が終わるまで解放されなかった。
 幼かった母も年ごろになってくると今度は母の生活費を稼いでこいと銘じられ、8人兄弟姉妹の中で年下の3人の娘たちが強制的に、東京で女給の仕事をさせられるも、早々に結婚してしまった母の住んでいる地元へ来て、叔父はいやがらせをするようになった。
 そしてこともあろうか、母が身売りをしていたと吹聴して回っただけではなく、上の姉や兄も同じように意地悪をするように仕向けた。家のまで大声で怒鳴る、お酒を飲んで通行人に絡むなど近所迷惑な行動に思い余って、父と取っ組み合いになったこともあった。
 私が幼いころ正月になると新年会と称してごちそうを食べに行くのだが、そのときいつもけんかをして帰ってきた父がとてもいやだったけれども、父なりに自分の妻をかばってのことだったと、今では感じられるようになった。私はより善いものを目指すために学びたいと願っている。「言葉は私のうちにもあるが、外にもある不思議な存在である」(池田晶子『14歳からの哲学-考えるための教科書-』(株)トランスビュー)
 したがってロゴスの刺激に対して体の位置または姿勢を能動的に定めていき、言葉を大いに尊重しながら事象を模索することが大切なのだと考える。
 以前、受けた認知心理学者である苫米地英人博士のセミナーでこのような質問があった「朝、目覚める1時間ほど前に、その日の一番悪いことであろう事を思ってしまうのはいいのでしょうか」と、それを受けて博士は「悪くはない。その日の朝、目覚める1時間ほど前に、その日の一番悪いことであろう事を思ってしまう人は、自分の望む要求に沿って生きてないということなのだよ。寝ているときはすべての社会洗脳が解けて本来の自分がでてくる。そのとき自我が欲することをやってないと悪夢を見て、いやなことを感じて後悔する。ということは望む人生を送っていないということなのだ」。実は私も質問者と同じような体験をしていた。
 たいてい夢の登場人物は意地の悪いやつで、とてもひねくれた顔をしている。しかしこちらは悪口を聞くのも言うのも嫌いだから何も言い返せない、あとには不愉快な感情だけが残りとても目覚めの悪い朝を幾度となく迎えていた。
しかし、ここ数カ月はその悪夢を見ていないのは、なぜだろうか。マズローの欲求段階説というものがある。一つの動機が充足されたあとに、ほかのどの動機が行動を支配するのかは段階的に決定され、基本的な動機が充足されなければ、高次の動機が行動を支配することはないという。(橋本憲尚編著『心の理解を求めて』佛教大学)
 まず最下位は人が生きていく上で欠かせない基本的な欲求であるが、空気や水は満たされていた。では睡眠や食べ物はどうだろうか。
 睡眠もやはり邪魔されるということは記憶にないが、食べ物は好きなだけ食べていたというより、残さないで食べることが母を喜ばすことにつながるという感覚がある。
 私には姉が一人いる。母は長女をとても好いていたが、私には笑顔をあまり見せなかった。小学校にあがってから母は私にこう言った。「おまえを生んだのは姉がひとりっ子ではかわいそうだから生んだのだ。ほんとうはおろしたかった」私は望まれずにこの世に生を受けたのだけれども、幼いころはそんなことを考える知恵もなく、ただ母の笑顔を見ることだけを考えていた。
 舞台劇に「森は生きている」というお話がある。大晦日の夜、年若いわがままな女王が「マツユキソウを見つけた者には籠いっぱいの金貨を与える」とおふれを出すことから物語は始まる。
 雪が積もり、森の動物は冬眠に入る12月なのに、春に咲くマツユキソウが咲いているはずはない。けれども、お母さんは末の娘に森へ探しに行けと言う。こんな寒い夜に一人ではいやだというと「こんな吹雪の晩にかわいいお姉ちゃんを外に出せるはずがないだろう。おまえだけで行くんだよ」と花籠一つとストールを持たせてうちから追い出した。始めて見たとき、この情景はうちの母親と姉、そして私の立場とまったく同じだと、直感した。
 姉は小さいころからなんでも優遇されて育ってきた。ご飯の量はみんな同じだけれども「今日ハンバーグが食べたい」と姉が一言言えば必ず夕方はハンバーグが出た。私が「カレーを食べたい」といっても聞き入れてくれたことはない。
 小学校にあがって自分一人の勉強机があてがわれた。姉は整理整頓が下手で、いつも机の上が散らかり放題であったが怒られるのはなぜか私である。父はよく言った「おまえはお姉ちゃんが大事じゃないのか。姉妹は大切にしなきゃいけない、だからお姉ちゃんができなかったらおまえがやるんだ」そういわれていたので私が二人の勉強部屋の掃除と姉の机の上を掃除していた。今から思えば、常に家族のために尽くしてきた、そうするようにしつけられてきた。どんなことも、はいはいと素直に聞き、学校から帰宅したら部屋に掃除機をかけ、夫婦共稼ぎなので晩ごはんの用意をする。週末は、たらいを出して家族全員の汚れた靴下を午前中いっぱい、多いときは午後3時すぎまでかかって洗うのが仕事だった。物心ついたころから、しばしば思考停止したのを覚えている。
 半面、姉は何をしていたのか記憶にはない。洗濯をするでもなく、食事の下ごしらえをするでもなく、掃除機をかけるところなどは見たことがない。食べるものもわがままで、あれはいやだ、これを食べたいとかなりぜいたくをしていた。私は絶対に母の作る食事に対して不平不満を言ったことはない、なんでも箸を口に運んで、どんなものでも笑顔でおいしいと言っていた。食事だけが唯一、姉に勝てるものだったのだ。どんなにおなかがいっぱいでも無理して食べた、笑顔で食べた。これを食べたらほめてもらえる、お母さんに喜んでもらえると本気で思っていた。
 けれども、偉いよとほめられて終わりである。次の瞬間にはもう姉に笑顔を向けるのだ。しかし唯一、姉に勝てる食欲を手放すことはできなかった。これがなくなれば、今よりもっと笑顔が見られなくなる、それは私にとって絶望でしかなかった。いつしか、その食事方法に慣れていき成人して結婚してからもそういう生活が続いていた。
 ある日、主人の両親と義妹と一緒に食卓を囲んでいたとき義妹が「もうおなかがいっぱいになっちゃったから、これ、食べてくれない?」と言われた。私はもう十分食べたけれども義妹と仲良くなりたかったので、無理をして食べた。それを見ていた義妹がクスクスと笑いながら言った「ほんとうにいくらでも食べるんだね」。
 その言葉を聞いて、はたと考えた。こんなにおなかがいっぱいなのに、なぜ食べなければならないのだろうか。違う日に、また両親と義妹と食事をする機会があったので、今度は私から義妹へ「おなかがいっぱいになっちゃったから、これ食べてくれる?」すると、義妹は「私はもう欲しくないからいらない」と断った、そのとき始めて自分が満腹だったら断ってもいいんだ、断ることは悪いことではないのだと始めて知った。
 また違う日、買い物の途中で大きなトラックにひかれそうになったが、すんでのところでぶつからずに事なきを得た。帰宅しても黙っていたが、近所の人が目撃していたらしくそれを聞かされた義母がこう言った「大丈夫かい、ケガはなかった?」私は涙が出た。
 そんなふうに実母から言われたことがなかったからだ。こんな私の身を案じて心配してくれる人など今までにいなかった。
 その日から私は自分を少しずつコントロールするようになった。子供を産み、家族が得られたことから家庭生活全般について、どのように家事を進めていけばいいか考えた。
 本も読んだ、炊事、洗濯、掃除を効率よくこなす術も身に付けた。それからパソコンを使い、インターネットを接続して仕事をするようになったけれども能力の限界を知る、通信講座や読書をすることだけでは得られない学力を底上げする必要があると痛切に感じた。
 そんなときに佛教大学に出会った「へだてなく学びの楽しさを」その一言で決定した、新たな学校生活の始まりである。不思議なことに決めてからは思考停止や、前述の悪夢を見ることはパタリとなくなった。そんなことにかまっている余裕がないほど忙しくなったせいだろうか。
 内発的動機づけは(省略)「たのしいからやる。おもしろいからやる」というように行動自体が目的化している。(速水敏彦『自己形成の心理』金子書房)私の場合、知的好奇心によるところが大きい、もちろん評価をいただければうれしいけれども、今はその行動こそが、私への報酬となっているのであった。
 数年前、東京の郊外に引っ越した。それまで住んでいた23区内とは大違いな空気のきれいさだ。今までは少し歩いただけで息切れがして胸が痛くなるけれども、ここではそんな状態になったことはない。それだけ空気がきれいなのだと感じるとともに、もっとこの地方を知りたいと考えるようになってきた。
 なぜ空気がきれいなのだろうか、それを語る前に、日本の首都、東京がある関東平野の成り立ちから説明する。
 昔の多摩川は現在より北側を西から東へと流れていた。青梅市付近を扇頂部にしてたびたび水路を変え浸食と堆積を繰り返しながら扇状に広がる武蔵野台地を形成した。(社団法人学術・文化・産業ネットワーク多摩『タマケン。知のミュージアム多摩・武蔵野検定公式テキスト』ダイヤモンド社)
 葦やススキが生い茂るだけの原野だった地域は飲料水や農業用水が乏しいため深く掘らねば確保できず、そして深く掘った井戸から今度は水を汲み出さなければならない。まいまいの井という、すり鉢の底にある井戸をからぐるぐると回り水を運ぶ方法が工夫されている。飲料水一つとってもすべて人の力だけで生み出さねばならなかった。江戸とその周辺の農村は生産されたものを単に消費するだけではなく、かまど灰が農村の肥料に、古い金物は農具の原材料となるとように生産、消費、また生産のサイクルの輪で結ばれていた。無駄とよべるものがなかったといえばそれまでだが、そうした生活からものを大切にして空気や水をきれいにしようという考えが根底にあるのだろう。
 現代はどうなのか。雨はアスファルトの上を流れて下水に流れ込む、地下水として残ったものも工業用水として組み上げ汚染し、そして下水へ。消費によって生まれた廃棄物は山となり、自治体は処理に頭を抱えている。(尾河直太郎『江戸・水の生活』新草出版)武蔵野、多摩地区における今後の課題は、今ある自然を保全して動植物の生命力を強くすることである。
 2008年10月26日には記念すべき多摩・武蔵野検定第1回が実施される。新参者にすぎないけれども武蔵野・多摩地域を知ることで、いつか問題の糸口をつかみたいと考えている私は受験することにした。

 講義で取り上げた都市「江戸」について、都市発達の特色と課題

 江戸開府をしてから、日本のみならず世界でも珍しい、家康の考えた「の」の字の拡張計画は無限ともいえる広がりを見せる。
 50年以上も建築工事を続けていた江戸の町はある意味、古代エジプトのピラミッド建築に通じるところがあるのではないだろうか。関東北部の山岳地帯や静岡県の富士川上流、長野県の木曽川上流から材木を流し、石垣は伊豆諸島から切り出し各地から呼び寄せた外様大名が船で運んできた。修羅と呼ばれるソリのすべりをよくするため昆布をしく、南蛮ふうの変わった衣装を着た音頭取りが旗を立て鉦や太鼓を打ち鳴らして1,000人、3,000人ときには5,000人の人夫たちが江戸城まで大石を運ぶ。(内藤昌『江戸の町(上)』草思社)
 江戸が開府して50年以上も都市の建設工事は続くので、江戸は荒くれた男性ばかりで極端に女性の少ない町であった。明暦の大火、天守炎上となっても素晴らしい復興を遂げたのは彼らのおかげだ。けれども現代社会ではそのような人はほんのわずかに過ぎない、自分が住んでいる町をよりよい町にすることは、やはり住民の生の声こそ必要だろう。東京における今後の課題はどうしたら町づくりのイニシアチブを市民が取り行動できるかを考えることである。
 京都議定書は1997年に採択され、2005年2月16日に発効。160カ国の合意が得られ温室効果ガス削減に向けて、法的拘束力を持った明確なシグナルが出されたことは喜ばしいことだが、採択されてからの11年間、日本は何をしてきたのだろうか。数年前、機会があり企業になぜ安全な水にして流さないのかと聞くと「やればコストがかかる、困るのは消費者だよ」という答が返ってきた。魚も住めないほど川を汚したのは、ほかならぬ自分自身なのかと驚愕した。企業は商品を作り市場へ販売する、そして早く捨てさせることで利益を得てきた。行政は躊躇せず捨てればいいのさとばかりにプラスチックも燃やせるごみ焼却施設を増設している。
 そんな生活にドップリ浸かっている市民が世界の環境問題に対してどう対処できるのだろうか。新幹線車内で読んだ雑誌WEDGEには次のような一文が載っていた。中国にあるネオジム鉄ボロンというHEV必須の鉱石採掘現場についての記事である。
 「人件費が上がりコストが合わなくなってきた。そこで考え出されたのが直接採掘現場に硫酸をかけて抽出するといった荒っぽい生産方式である。(中略)つまり998トンの汚染された土砂は再処理のないまま川に廃棄されるのである」中国すべての川は環境問題解決のために汚染されている。
 これこそ環境問題のシフト④の「代替的な方法によって生じる問題のシフト」ではないだろうか。
ハイテク工場から流される塩素系炭化水素などは粘度が低くコンクリートも透過する。あるものは揮発性が高く土壌内の空気を、あるものは地下水路に達して地下水を汚染する。(稲田勝『環境リテラシー』リベルタ出版)土地土壌センターでは土壌汚染対策試算を13兆円と出した、商品をつくる前に莫大な経費をかける企業は皆無に等しい。仏をつくって魂入れずとなっているのかと思うと京都議定書が採択される27年前は環境権が提唱されていた。「人たるもの誰もが、健康や福祉を犯す要因に災いされない環境を享受する権利と、将来の世代への現在の世代が残すべき遺産であるとことの、自然美を含めた自然資源にあずかる権利」が基本的人権の一つとして確立されるべきであるとされている。(稲田勝『環境リテラシー』リベルタ出版)
 アメリカの調査会社Harris Interactive社の調べでは、2006年の欧州においてディーゼルエンジン車の人気が高い、燃費効率がよくCO2排出量が少ないエンジンを搭載する自動車を既に知っているのである。日本では石原都知事のパフォーマンスにより支持率が低迷していたが、2009年には日産、三菱、ホンダから販売が予定さる。中でもホンダはディーゼル車だけではなくハイブリット車にも力を注いでいるのだ。2006年9月、広州で第二自動車工場を完成させたときのこと「記念式典には地元政府関係者や広州汽車集団の幹部らが多数参列した。あいさつにたったホンダ社長の福井威夫氏は、新工場が地球環境や作業効率に配慮した『グリーンファクトリー』であることを誇らしげに披露した。水のフル循環システムを採用し、工場用水の外部排出をゼロとしたのだ」(長谷川洋三『クリーンカー・ウォーズ』中央論新社)
 東京は武蔵野に流れる多摩川の地名は、川の砂利がたまのようにきれいだからついたのだといわれる。おりしも広州に同じ意味を持つ「たま」の文字がついた「珠江(しゅうこう)」という川がある。この川を始め、いつか日本の技術によって生まれ変わった川の畔で「珠江という川はたまのようにきれいだから、その名前がついたんだよ」といわれる日が来ることを期待している。
(1)「読む能力」「書く能力」という2つの観点から遠隔学習の特徴を説明し、対面学習での「読む能力」「書く能力」との違いを説明しなさい。自分の学習経験を点検して説明すること。

 ⇒読む能力からみた遠隔学習の特徴は無言の学びだということだ。テキストや参考書、機関紙などに口は付いていないので何もしゃべらないし、語りかけても返ってくることはない。ただ文字面だけを追っているとほかのことに思考が向いてしまう。集中力がなければ正確に読み取ることはできない。
 そして書く能力からみた遠隔学習の特徴は書くということだ。学習以外にも遠隔学習には書くことが多い、レポートのほかにも試験や卒業論文、質問票や事務手続き、テキストを購入するときなどさまざまな場面で書くことを要求される。
 ところが読む能力からみた対面学習の特徴は言葉による学びだ。教師によるあいさつに始まってチョークで板書するときにも絶えず言葉が聞こえるのでその内容を読み解かねばならない。
 そして書く能力からみた対面学習の特徴は講義を受けながらノートを書くことだ。スクーリングや大学の講義、人材育成セミナーや座談会、耳から入ってくる教師の言葉を聞きながら手にはペンを握って文字をノートに書き起こす。ただ教師の言葉を書き写すだけではなく、何を言っているか、どのような事柄と関連するのかなど、聞いているのと同時に整理をしながら書き進めなければならない。
 ノートをとらないで聞いているとしばしば相手の表情や態度に惑わされる。何げないしぐさや言い間違いなどに気を取られて肝心な話を聞き逃したりすることもある。
 遠隔学習と対面学習の一番の違いである、しゃべりかけてくれないテキストとしゃべる教師だ。
 これを使い学習をするために欠かせない能力に「読む能力」と「書く能力」がある。誰でしていることだと言えるかもしれないが、対面学習と違い、語る言葉を持たぬテキストを相手にするには、やはり意識的に学ばねばその能力は向上しない。
 そのわけは大学レベルの研究書などは小説などと違い、読み手が自由に読んで解釈するものではなく、著者や読み手からいったん離れてその文章を正確に読解する必要がある<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P10。
 また「読む能力」は文字だけではなく映画などの映像、仕事で使うテープ起こしの音声、情報の詰まったコンピューターなどから情報を読む能力が高くなければ正確に理解することができない。
 正確に理解したということを証明するためにはどうしたらいいのだろうか。理解した事柄を他人にも分かるように明示せねばならない。そのため「書く能力」も必要になり、書くために参考文献などを集めてくる、これで準備が整ったかといえばそうではない。参考文献のどこに、いまから書こうとしているレポートの資料として使えるものがあるか点検せねばならない。運よく数行読んだだけで出てくるときもあれば1冊丸々読んだあと奥付にやっと出てくるかもしれない。あるいはその本には書かれてないかもしれない、検索力も書くためには欠かせない能力の一つなのだ。
 そうやって資料を集めていると、もっといいもの、もっと新しいあるいは別の視点で書かれているものはないかと探すことに夢中になり一向にレポートが進まない。
 ここに一つの「誤解」がある。それは、レポート・論文にしろ何にしろ書くという作業を頭の作業だと思っている「誤解」である。人間は頭だけで考えるのではない。手との共同で考えるのである。紙の上やディスプレーとの共同で考えるのである。<小笠原喜康、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文術、講談社現代新書、P166。
 このように遠隔学習では「静」であった学習が対面学習では「動」になるといえる。











(2)次に、インターネットやDVDなどのデジタル化したメディアを活用した学習は、書籍・雑誌など従来のメディアによる学習とどう異なるのか、「問う」という関心から考察しなさい。学習経験に照らして自分の意見を述べなさい。

 ⇒学ぶためには読む、書くのほかに考えることが必要、それは考えることがなぜ、どうして、という疑問から出発しているからだ。冷静になるとか精神統一をすればいいとかいえばそうではない。
 確かに有効な手段ではあるかもしれなけれども、それを行うことによって考える能力が上がるわけではない。
 例えば解決したいなぞがある、その謎を解き明かすにはどうしたらいいのだろうか、と「問う」のである。
 問うとは問題を自覚し発見しその解決を意識的に求めること。問うためには与えられた問題を解決するための問題解決能力とは別の能力、問題発見能力が必要であるといえる。この能力を養うことが学ぶことにおいて重要である。<『基礎教育I-VK』佛教大学通信教育部 第13回 問う1 なぜ「問う」なのか。
 「問う能力」「読む能力」「書く能力」という、この3つの能力は、互いに影響し合って向上する能力なのである。
 与えられた情報を読んで、ふと疑問がわいてくる、どうしてなんだろう、もしかしたらそうではないのかもしれない、情報を聞いたとき、根拠を問うことはとても大切だ。どのような主張なり意見なりにも、知的思考に基づいたものならば必ず理由あるいは言動のよりどころとなるものがある。
 またその根拠が正しいものなのか問うことも重要だ。あいまいなままにせず白日の下にさらすことで、その根拠が正確なものだといえるのだ。
 「聖人や賢人といわれる人人の本を読む場合には、彼等の言うことをむやみに有り難がるのではなくのではなく、批判的に読むことが大切である。そうでないと真理は分からないし、聖賢の書を読むことは、役に立つどころかかえって害になる<『自立学習の手引き』私立大学通信教育協会P112」
 批判的というのは少々過激かもしれないけれども、どんな偉い人のいうことでも鵜呑みにしない、自分できちんと調べてこそ、真理の力が発揮できるというものである。
 批判的な問いには常識、あいまいさ、根拠、矛盾、経験、もし、異論を問うなど、与えられた情報を元にさまざまな問いを考えられる。
 問いを考えたら答を探すために調べなければならない。もちろん先生に聞くこともスクーリングで出会った仲間に聞くのもいいことだけれども、まずは自分で調べることから始める。
 手元にある国語辞典や漢和辞典あるいは古語辞典、英和辞典も役に立つであろう。さもなくば図書館へ出掛けてもいい。
 問いを個条書きに書いたカードを何枚か作って並べる「問題map」は、順序立てて物事を見られるのでレポートや論文の全体が見えては把握しやすいだろう。
 メディア時代の昨今ではパソコンを使ってDVDの百科事典やインターネットの検索エンジンなども調べるのに有効だ。
 例えば参考文献として借りた「小笠原喜康著、インターネット完全活用編大学生のためのレポート・論文編 講談社現代新書」を図書館で探しても全然見つからなかったけれども、インターネットで図書館内の所定の検索欄に文献名を入力するとすぐに出てくる。
 ボタン一つで欲しい文献がどこの図書館にあるのか一目でわかる、時間の短縮もでき効率的だ。
 yahoo!japanという検索エンジンでは理論演算というものがあり、調べたい単語が複数一致するもの、どちらか片方を検索するもの、または含まない語句を指定したり、優先順位を付けるなど演算子を付けることでかなり絞った検索ができるようになっている。
 仕事でパソコンを使っているものにはごく自然なことだけれども、図書館で日本十進分類法に沿って探し物をしながら本棚をめぐりながら偶然、目にとまった本を読むのもひそかな楽しみである。
 それは現在の「問う」ことに関連のないことでも、未来の「問い」には絶対役に立つものである。

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